昔々、あるところに孤児院がありました。そこでは、ひとりの少女と六人の兄弟が暮らしていました。少女は、そう——アナタです。
アナタたちは様々な事情から、この孤児院に引き取られました。身寄りのないアナタたちは、屋根のある家で暮らせることをとても喜びました。けれども、そこは決して楽しい場所ではありませんでした。孤児院の主(あるじ)である神父が、アナタたちに酷い仕打ちをしてきたのです。いつかここから抜け出そう。ここではない、どこか新しい『セカイ』で、みんなと幸せに暮らそう——アナタと六人の兄弟たちはそんなふうに話しながら、日々を懸命に生きていました。
これは、そんな頃のお話——。
オレには年の離れた妹がひとりいた。優しい両親と、可愛い妹。田舎町の小さな家だったが家族四人、幸せに暮らしていた。——両親が死ぬ、その日までは。
オレたち兄妹から両親を奪ったのは流行り病だった。ある日、赤い斑点が皮膚に浮かび上がったと思ったらあとはあっという間だった。医者の話では人によって進行する速度が違い、苦しみは伴うが十数年生きる例もあるとのことだったのに。オレの両親はひどくあっけなかった。
両親の葬式は近所の人たちが取り計らってくれた。棺に土をかける無機質で規則的な音は今でも耳に残っている。隣でオレの手を握り、離そうとしなかった妹の泣き声も。
「大丈夫だ。これからはシチューもイチゴパイもオレが作ってやる。……だから泣くな」
小さな手を握り返しながら、震える声を抑えて必死に言った。兄として、オレは涙を流すわけにはいかなかった。これからはオレがこの小さな手を守らなければならないのだから。
他に身寄りもなく、たったふたりの家族となってしまったオレたちは孤児院に引き取られることとなった。孤児院と言ってもオレたちが最初で、他に子供たちはいないらしい。
教会に併設されている孤児院だったこともあり、そこでは神父が絶対的な存在だった。毎日のように雑用や細かな仕事を頼まれたが、他に生きていく場所も手段もなかったオレと妹は逆らうこともせず、『いい子』と呼ばれるように日々を過ごしていた。
少しした頃、新しい子供が来ることになった。三人の男の子だった。
子供の数が増えても言いつけられる仕事の量は大して変わらず、むしろ以前よりも増長しているように思えた。というのも、ここの神父というのが聖職者の仮面を被った人でなしだったからだ。強欲で利己的で、人の心など持っていなかった。オレたちは施設の地下で——人を殺す道具を作らされていた。
「これは命を奪う道具なの?」
幼い妹が鉄の塊を手に持ちながら聞く。その不均衡な光景は、子供ながらにショッキングだった。
「私たちのせいで……人が死んじゃうの?」
「……オレたちのせいじゃない。大人たちのせいだ」
そう、大人たちのせいだ。こんな小さな純粋な子に、こんな物を持たせて、こんなことを言わせて。全部、汚い大人たちのせいなんだ。
「死んじゃった人たちも、幸せなセカイに行けたらいいのにね」
その頃、オレたちはたまの休息日が来ると集まってこんな話をしていた。『いつかこんなところからは逃げ出して、新しいセカイでみんな一緒に幸せに暮らそう』と。日々の労働と仕打ち、逃げようにも大人たちの目はそこかしこで光っている。まるで監獄のようだった。束縛された生活には誰もが不満を抱いていた。
「……そうだな」
オレは曖昧な笑顔で、そう答えることしかできなかった。
それからまた少しして、さらにふたりの兄弟が増えた。最初はふたりだけで静かだった孤児院も、気付けば随分と賑やかになっていた。
そんなある日、いつものように地下へ向かおうとすると神父が声を掛けてきた。声を掛けられたのは妹で、地下には行かなくていいと言う。理由を問うと、人手が増えたので力のない女は別の仕事をさせるとのことだった。
確かに女の子である以上、重労働となる地下の仕事は妹には不向きだ。しかし、何かが引っかかった。それが何かは上手く言えないが。
「心配だから、オレも一緒に行かせて下さい」
しかし返ってきたのは『駄目だ』の一言だけだった。この監獄では神父の言うことが絶対。仕方なくオレはいつも通り地下への階段を下りながら、不安げな目をした妹を見送った。
そしてその夜、労働を終えて部屋に戻ったオレを待っていたのは今まで生きてきた中で最も最悪な出来事だった。おそらく両親が死んだことよりも、ずっと。
真っ暗な部屋の中で妹はうずくまっていた。頭からつま先まで毛布をすっぽりと被り、うつぶせのまま膝を抱えている。
「眠ってるのか?」
慣れない仕事をさせられて疲れたのだろうか。わずかに毛布から出ていた足先に手を伸ばして触れた——瞬間。
「いやっ!」
オレの手を払いのけるように妹は飛び起きた。思わず目が丸くなる。
「お兄、ちゃん……」
「ごめん」
そんなに驚かせたか、と思いながら一歩近付いたところで、オレは異変に気が付いた。薄暗闇でも分かる。目元が赤く腫れていたのだ。
「……何かあったのか?」
「ううん、何もない。何もないよ」
不自然に繰り返される言葉はオレの不信感を煽るだけだった。首を横に振りながら必死に笑顔を作ろうとしている時点で、妹の様子がおかしいことは歴然としている。
ふと、ずっと押さえられている手首が気になった。その手は震えている。
「この手……どうしたんだ」
半ば無理矢理、奪い取るように手首を掴む。年相応の、いや、それよりいくらか細く、か弱い手首。そこにはオレの手でも覆い隠せないような赤い痕が残っていた。指の痕……にしては、形が変だ。しかしオレはすぐに気付いてしまった。パズルのピースをはめるように両方の手首を揃えると、はっきりと見えてきたのだ。これを残した誰かの存在が。
手首の痕以外、目立った傷はなかった。少なくとも見える場所には。けれど妹は泣いていた。まるで自分を守るようにうずくまっていた。そして何より、触れられることを嫌がった。
——まさか。
「……何もないよ、お兄ちゃん……」
震える声が真実を如実に物語っていた。手首の痕はオレよりも遥かに大きい。大人の男の指だった。
「……誰だ」
オレの妹を穢したのは誰だ。大切な妹に一生消えない傷を付けたのは一体どこのどいつだ。言いようのない、そして抑えようのない怒りが込み上げる。
殺してやる。殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる! 殺す! あの神父を今すぐ! この手で!!
武器になりそうなものなんて何もなかった。それでも衝動のままに部屋を飛び出す。しかしオレの足は扉の外に一歩踏み出したところで止まった。
——殺してどうなる?
血が上って真っ赤になっている頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。ここで神父を殺しに行くことは本当に賢い方法なのか?
その問いの答えはすぐに出た。たとえ首謀者である神父を殺せたとしても、その後の結末は目に見えている。凶行を知った大人たちはオレを反逆児と見なし、明日にでも始末するだろう。オレが死んだら誰が妹を守ってやれる? うずくまって泣くことしかできないこの小さな女の子を誰が。
そして神父は妹に口止めをしているはずだ。それなのにオレがこの事実を知っていると分かれば、兄に助けを求めたと勘違いする。そうなればもっとひどい仕打ちを妹に与えるかもしれない。
感情と理性が身体の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。何が正しいのか間違いなのか、もはや区別がつかなかった。ああだけどあいつの息の根だけは。
「お兄ちゃん」
オレを平静に連れ戻したのは妹の声だった。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんがそばにいてくれるなら、私は大丈夫」
何が大丈夫なもんか。そんな声で、そんな顔で。
「……大丈夫なんて、言うな。言わなくていいんだ」
嫌がられるかもしれないと思ったが、オレは思い切り妹のことを抱きしめた。彼女のためにしてやれることが他には思いつかなかった。それでも胸の中では、この健気で純粋な子を冒涜した下衆への怒りが燃え盛っていた。そして同時に己の非力さが腹立たしくもあった。
どうしたら妹を大人たちの魔の手から救い出せるか。毎日考えた。殺すことも、逃げ出すことも、それこそふたりで死ぬことも。ありとあらゆる方法を考えては飲み込んだ。
どれもこれも現実的ではなかった。一度くらい考える前に行動してしまえば、ひとつくらいは上手くいったかもしれない。だが、オレにはできなかった。考えれば考えるほどオレたちは子供で、非力で。相手は大人であり、強者だった。弱者は強者にねじ伏せられる。それが世(せかい)の理(ことわり)だった。
そうして弱者のオレは、強者の待つ場所へ連れて行かれる妹を見送ることしかできなくなっていった。日に日に帰りの遅くなる妹を待つ時間が苦痛だった。なぜオレは今、ここにいるのだろう。なぜ愛する妹を助けに行ってやらないのだろう。気付けば、いつしかそうして自分を責める気もなくなっていた。
見て見ぬ振りをすること。それがすべてにおいて最善の方法だと悟ってしまったのだ。強者と対等に戦えるほど大人ではなかったが、無謀と知りながら世の理に逆らおうと思えるほど子供でもなかった。オレは毎夜、暗い部屋の中で本を開き、本の世界に浸ることでなんとか正気を保っていた。
助けてやれないのならそばにいる必要もない。ある時を境に、オレは妹と距離を取るようになった。つらい思いをしながらも気丈に振る舞う姿を見ているのが苦しかったし、それを知っていながら何もしてやれない自分を思い知るのも嫌だった。
そう、オレは逃げたのだ。最愛の妹を見捨てて。
「オズのセカイに行けば、幸せになれるんだよ」
久しぶりに訪れた休息日の夜、妹は言った。手元に数枚の紙を広げ、鉛筆で何かを書いている。
「みんなでオズごっこをしたの。ブリキはハルちゃんで、ライオンはケイちゃん。チーちゃんは……」
オズごっこ——。
今日の昼間、兄弟たちがやっていた遊びだ。『オズの魔法使い』になぞらえたものらしく、絵本の登場人物をそれぞれにあてて遊んでいたようだった。一緒に遊ぼうと言う妹の手を振り払い、オレは楽しげに遊ぶ六人を遠巻きに見ているしかできなかった。そこにいる資格などオレにはなかった。
「ここではね、みんなが幸せに暮らせるんだよ。ねえ、お兄ちゃんは何があったら嬉しい?」
妹はすっかり冷たくなったオレにも変わらずに笑顔を向け続けてくれた。だけどオレにとってはそれが苦しかった。
「何もいらないが、そのセカイのことをなんでも知っていたい」
素っ気なく答えて、オレは読んでいた本に視線を戻した。なんでも知っていたい。そうすればお前を助ける術も分かるだろうから。そう言う前に口を閉じた。
遊び疲れていたのか、やがて妹は鉛筆を握ったまま眠ってしまった。彼女が眠ると、オレはいつもホッとした。寝息だけが聞こえるこの時だけは、薄情な兄もそばにいていいのだと思えるような気がしたから。
乱れた毛布をかけてやりながら、ふと散らばった紙を見た。そこにはオズごっこに関することが書かれていた。どんなセカイなのか、どうしたら行けるのか、どんなことが起きるのか。絵本のようなそれには、彼女を含めた六人の登場人物が描かれていた。
——いや、六人ではない。そこにはその場にいなかったオレも含めた、七人の兄弟が揃っていた。
「魔法使い……」
『アイル』と書かれた人物は魔法使いで、『セカイのすべてが分かる本』を持っていると書かれていた。
「……ごめんな。何もできないお兄ちゃんで」
眠る妹の頬にキスをして、オレは両親が死んでから初めて泣いた。
翌朝、妹の描いていた絵本を見た神父はひどく憤った。オレたちが徒党を組んで、逃げ出す算段をしているのだと勘繰ったのだ。面倒なことになる前に、全員離散させて売り飛ばそう。下衆な男の考えそうなことだった。
それから大して日を置かず、孤児院にいた七人はそれぞれ別の場所に引き取られることになった。誰がどこに行くのかは教えられず、たとえ血の繋がった兄弟同士でも容赦なく引き離されることとなり、オレと妹も例外ではなかった。
別れ別れになる前日、誰が言い出したかは分からないがオレたち七人は遊び場となっていたモミの木の下に集まった。
「十年後の十二月二十五日、またここで会おう」
幼い兄弟たちが交わしたその約束をオレは何も言わずに眺めていた。たとえ十年が経っても、オレは許されていないだろう。未来に希望を持っている彼らととても同じ気持ちにはなれなかった。世間的に見ればまだ子供でも、ひとり年の離れていたオレは自分が汚い大人になる一歩をすでに踏み出していることを知っていた。
そして孤児院からはひとり、またひとりと子供たちが去って行った。誰もが寂しく思っていただろうが、あの約束が彼らを強くしたようだった。
そして、とうとうオレの番が来る。結果的にこの地を最後に去るのは妹となった。
「今までのことは忘れて、前に進め」
オレの言葉を妹はじっと聞いていた。
「お兄ちゃんのことも?」
「……ああ、忘れていい」
青い瞳に射抜かれる。いつからだろう。この目に見られることが怖くなったのは。
「つらいことや苦しいことは覚えてなんかいなくていい。全部……忘れろ」
それがお前にとって幸せなはずだから。
「いいな。お兄ちゃんとの約束だぞ」
こんな時だけ兄の振りをするオレをどうか許してくれ。
「……元気でな」
抱きしめることはできなかった。伸ばしかけた手で触れる程度に頭を撫でて、オレは妹と別れた。これが永遠の別れの始まりになるとも知らないで。
忘れろ、頼むから忘れてくれ。アイルは心の中で願いながら、孤児院を去りました。
お前のことは何があってもオレが守ってやるから。かつて誓ったその想いも、今では失われていました。
けれど、その想いはやがて来る『出会い』によって、再び思い出されていくのですが——それはまた、別のお話。
おしまい
——あるところに、ひとりの大魔法使いがいました。名をアイルといい、このセカイのことはなんでも知っていると人々から一目置かれていました。しかし、そんな彼には誰も知らない……誰にも知られてはならない秘密があるのでした。
「……これにも、記述は何もなし」
深いため息と同時に、手にしていた本を閉じた。今日もこれといった手掛かりはないまま、一日が終わろうとしている。読み終えた本を棚に戻しながら、いよいよ潮時だろうかと考える。
「やはり、おかしいのはオレか……」
『このセカイ』に来て今日で六日目。正気を保つのにもさすがに疲れてきたが、素直にそうと認められない程度には、まだどこかで平静さも残っていた。
「……誰でもいい。頼むから、教えてくれ」
七日前のあの日——オレの身に一体、何が起こったのか。
目の前には何も残ってない、焼け野原があったはずだった。そこにはかつて孤児院が建っていて、オレはその前で立ち尽くしていたはずだった。それなのに——気が付くと、見知らぬ場所に立っていた。
——ここは、どこだ? 人が行き交い、会話が飛び交う。そんな町のような場所。当然焼け跡なんてものもそこにはない。手に持っていたはずの本も、いつの間にか消えていた。
「ここは……どこだ?」
今度は実際に疑問が口をつく。それでも答えは見つからず、足も脳も動くことを拒んでいるかのように停止したままだった。
何が起きている? 大切なものを失ったショックのあまり、白昼夢でも見てしまっているのだろうか。他にも様々な可能性を考慮したが、どれも正解だとは思えなかった。
「アイルさん?」
不意に背後から声を掛けられた。それは確かにオレの名前で、ほんの少しだけ安堵したのを覚えている。振り返ると、そこには見知らぬ男が三人いた。
「珍しいね。二日も続けて村まで来るなんて」
そのうちのひとり——カラスを連れた男が寄ってくる。
「いつもは一日出てくると、またしばらく篭りっきりになるもんな。アイルさんらしいけど」
続いて、うさぎを連れている奴が言う。その後ろにもうひとりいたが、無口らしく話に続こうとはしなかった。
妙だった。彼らは揃ってオレの名前を口にした。それはつまりオレのことを知っているということになるが、オレには三人の顔にまるで覚えがない。
「オレのことを、知っているのか?」
「……なんの冗談だ、それ」
後ろにいた無口そうな奴がようやく口を開いた。表情にはあからさまな呆れが滲んでいる。
「まあまあ、ハルくん。これはきっとアイルさんなりのジョークだよ」
「全然笑えねぇんだけど」
「そもそもハルくんってあんまり笑わないよね」
「そうでもないぜ、シアン。こう見えても一度ツボに入ると……」
「……シアン……?」
その名前には聞き覚えがあった。十年前、共に孤児院で暮らしていた兄弟のひとりだ。大人しく、どこか危うい末っ子のシアン。言われてみれば確かに面影があるような気もする。そう思って後ろのふたりも改めて見てみると……。
「……ハルって、ハルトか? それにお前はチカゲ……?」
「他に誰がいるのさ」
うさぎを連れた男——チカゲはやや不機嫌そうに答えた。どうやら当たりだったらしい。
「悪い。何せ十年振りだからな……」
「……十年振り?」
相変わらず仏頂面のハルトが怪訝そうに言う。他のふたりもひどく曖昧な表情を浮かべていた。
「会うのは十年振りのはずだろう? 孤児院で別れて以来、オレは誰とも会っていな——」
言葉はそこで止めた。止めたほうが得策だと思った。三人の顔が得体の知れないものを見るような目に変わったことを察したからだ。
「えーと……おれたち、昨日も会ったよね?」
「昨日……?」
三人は何か勘違いをしているのではないだろうか? しかし、その顔はオレを騙しているようには見えなかった。むしろ彼らのほうが悪い冗談はよせ、と言いたげな顔だ。
おかしい。何かがおかしい。
「アイルさん……アンタ大丈夫か?」
チカゲがいよいよ心配しているような声で言った。
「……ここは、どこだ?」
オレは再び同じ疑問を口にした。
三人から返ってきた答えは思いきり殴られたかのように衝撃的なものだった。
「ここはオズのセカイだよ」
『オズのセカイ』。その言葉をオレはかつて聞いたことがあった。
ああ、やはりオレはショックで頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
ハルトたちに案内されて辿り着いたのは、村からだいぶ離れた場所にある城だった。聞けば、この白亜の城にオレはずっと住んでいるらしい。もちろん覚えはなかった。強いて言うなら、昔何かの絵本で似たような城を見たことがある気がする。そんな程度の印象だった。
ひとりにして欲しいと言うと、かつての兄弟たちは特に追及することもなく心配そうな顔だけを残して帰っていった。彼らから見れば、昔馴染みがおかしなことを言い出したと不審に思ったことだろう。だがそれはオレも同じだった。おかしいのは誰だ? オレか、それとも彼らか、あるいはすべてなのか。
とりあえず城内の探索をすることにした。じっとしていてもこの状況を飲み込めるわけでもない。
城内は広く、窓が極端に少ないこと以外は特に変わったところはなかった。最上階には眼下を見渡せる塔があり、そこからはハルトたちと出会った村や木の生い茂った森が見える。三百六十度、どこに目をやっても見覚えのあるものはなかった。その後も城内をうろついたが、状況を掴めば掴もうとするほど自分の首が締まっていくのがわかった。自分の見知ったものが何ひとつない。そんな中で正気を保つのはひどく苦しかった。
鍵がかかっている扉を見つけたのは日も暮れた頃のことだった。なんとなく気になって鍵に触れると、突如火花のような光が目の前に飛び散った。そして次の瞬間には重厚な鉄の鍵は外れて床に落ちていた。
「今の、光は……?」
手のひらが熱い。指先が磁石に引き寄せられたかのような、奇妙な感覚がそこにはあった。——まさか、オレが何かしたのか? だから鍵が外れたと?
「……有り得ない」
手をかざしただけで鍵が開くなんて、魔法じゃあるまいし。
閉ざされていた部屋は書斎のようだった。壁一面、天井まで続く棚には隙間なく本が敷き詰められている。慣れ親しんだ紙とインクの匂いに、初めて心が安らいだ。
オレはそこにある本を片っ端から読み始めた。心を落ち着かせるため、そして何か手掛かりを見つけるために。
そうして過ごすようになってから何日か経った頃、城の門が叩かれる音がした。少し悩んでから顔を出すと、そこにはまたしてもオレの名を知る男が立っていた。名前はテンマ。もう驚きはしなかった。
「みんなこのセカイで、ずっと一緒に暮らしてきたじゃねぇか。オマエのほうこそ、忘れちまったのか?」
わずかな希望を持って投げかけた問いは、オレの期待を裏切るものだった。
おかしいのは、やはり——。
——これが、昨日の話。このセカイに来てから六日目の話だ。
これで最後にしよう。そう思いながら何十冊、いやもしかしたら何百冊目かもしれない本を手に取った。この本にオレの求めている答えがなければ、狂っているのは自分だということを認めよう。そう思うと、途端に心が軽くなった気がした。
あいつらの言うように、オレは生まれた時からこのセカイにいて、ずっとこの城に住んでいる。あいつらと会ったのも孤児院なんかではないし、その孤児院が今や跡形もなく燃えてしまったなんて事実もない。全部、夢で見たことだったんだ。——血の繋がった兄妹がいたことも、その妹にひどい仕打ちをしたことも。すべてオレが見た悪夢だったんだ。夢を現実だと思い込むなんて自分の精神が心配にはなるが、あの夢が現実だと言われるよりはよほど救われる。
しかしセカイは残酷だった。そんなことはとうの昔に知っていたはずだったが、改めてそう思う。
インクで黒ずんだ指先でページをめくる。開いた本の中にはオレの求めていた答えがすべて載っていた。ここがどんな場所であり、何があるのか。何をどうすればそれは手に入るのか。欲しい答えはなんでもあった。セカイのすべてを詰め込んだような本だった。そしてそこに書かれていることを、オレはかつて違う場所——違うセカイで、見たことがあった。
ページをめくる手が重くなる。知れば知るほど、このセカイがどこなのか思い知らされていく。それは同時にあの悪夢が夢ではないことも示していた。
ようやく辿り着いた最後のページには見覚えのある絵が書かれていた。ライオンやハート、うさぎをモチーフにした鍵の絵。その横には見覚えのある六人の名前があった。
「……やはり、オレは狂ってしまったのか?」
思わず笑いが込み上げる。それも仕方ない。こんな状況、狂っていると思うしかないだろう。
『オズのセカイ』。オレのいた——オレたちがかつていたセカイとは別のセカイ。しかし、どういう場所か知っているセカイ。魔法使い。セカイのすべてがわかる本。否定したいと思えば思うほど、証拠は揃っていく。
「ここは、あいつの——」
その時、城の門扉を叩く音がした。ノックに混じってかつての兄弟たちの声が聞こえてくる。あいつらはおそらく気付いていないのだろう。ここがどこなのかも、自分たちが何者であるのかも。
ノックは止まない。だが、もう門を開けるつもりはなかった。何も知らない彼らとは違い、オレはすべてを知ってしまっている。知っていて、覚えているからこそ彼らに合わせる顔はなかった。
——いいや、会ってはいけないのだ。
何も知らない彼らといたら、オレはいつしか自分の犯した罪を忘れていくかもしれない。やはりあれは夢だったのだと都合良く思うようになってしまうかもしれない。それではいけないのだ。オレはひとり孤独に生きていかなければならない。あいつが、ひとり孤独に生きていたように。たとえそれが償いにならなくとも。
オレの頭の中では誰かがずっと唱え続けている。忘れるな。忘れるな。忘れるな。己の罪を決して忘れるなと、あの日からずっと。
その日以来、城の門は固く閉ざされました。まるで他人を拒む彼の心を映すかのように、それはやがてアイル自身でも開くことができなくなったのです。けれどアイルはそれでいいと思いました。かつて妹が感じた苦しみを自らも背負おうと、そう決めたのです。
鍵を手に入れるためには、すべてを捧げてもいいと思えるほどの強い絆が必要となる。本に書かれていた言葉をアイルは思い出します。そして同時に、自らが鍵を手にすることはないだろうと思いました。自分がそう思えるのは大切な妹だけでしたが、彼女はもういないのです。
そうして、大魔法使いの城を訪れる者はいなくなりました。
——アナタが来るまでは。
その格好に、その身体……貴様、女だな。
よりにもよって青色の瞳ときた。……嫌な色だ。
まあ、いい。顔を上げろ。
……鍵が欲しいんだったな?
ああ、知っている。オレは……大魔法使いだからな。
おそらく貴様が知りたいことは、すべて教えてやれるだろう。
だがその前に……ひとつ、やるべきことがある。
目障りなネズミを駆除することだ。
たとえネズミ一匹でも、オレの領域を侵すことは許さない。
このまま貴様の首を絞めて……すぐに終わらせてやる。
『死ぬ』? ……はっ、それがなんだ?
貴様が死のうが生きようが、オレにはどうでもいい。
顔を見せろ……。
最期に、苦しみに歪んだ様をオレに晒すといい。
力ずくで、無理矢理やられたほうが好みなのか?
だとしたら、品性を疑う。
力でねじ伏せられて、心を踏みにじられて……。
オレは、そんなものを受け入れられる奴の気が知れない。
——あの日から、何度も夢を見ている。
忘れられないのは、きっと罰なのだと思った。
忘れることなど許さない。それだけの罪を犯したのだから。
オレは……きっとそう責められているのだ。
昔々、あるところに孤児院がありました。そこでは、ひとりの少女と六人の兄弟が暮らしていました。少女は、そう——アナタです。
アナタたちは様々な事情から、この孤児院に引き取られました。身寄りのないアナタたちは、屋根のある家で暮らせることをとても喜びました。けれども、そこは決して楽しい場所ではありませんでした。孤児院の主(あるじ)である神父が、アナタたちに酷い仕打ちをしてきたのです。いつかここから抜け出そう。ここではない、どこか新しい『セカイ』で、みんなと幸せに暮らそう——アナタと六人の兄弟たちはそんなふうに話しながら、日々を懸命に生きていました。
これは、そんな頃のお話——。
オレが弟のシアンと共に孤児院に引き取られてから、一ヶ月が過ぎた。ここに来る前に色々なことがあったせいで、シアンはすっかり塞ぎ込んでいたけれど、最近は少しずつ、人の輪に溶け込んできている。この前は、久しぶりにシアンの笑っているところを見た。オレは心から安堵すると共に、シアンを変えてくれた女の子——オマエという存在に一目置くようになった。
その一方で、オレはなんとも言えない、歯痒い気持ちに囚われた。兄として、シアンに充分なことをしてやれていないという自覚があったからだ。
それだけではない。何日かおきに、教会の地下での仕事を休まなければならず、その分、皆に負担を掛けていることも、オレが引け目を感じてしまう原因だ。仕事を休むのにはもちろん理由があるのだが、オレは皆に本当のことを伝えていなかった。……いや、伝えられないのだ。
それでオレは、もっぱら「しつこい風邪」ということにしていた。皆は気にしないと言ってくれたが、オレは何の役にも立てない上、皆に嘘をついていることで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自然と、オレは皆から距離を取るようになった。露骨に避けたりはしないし、むしろ仲良くはしていたが、心の深い部分は固く閉ざし、誰にも覗き込まれないようにしていた。
「あれ? 今日はお休み?」
それは、吹く風に夏の匂いが混じり始めた、ある日のことだった。
昼下がり。縁側に腰掛け、遠くのほうをボーッと見つめていると、オマエが横から話しかけてきた。右手に布はたきを、左手にバケツを持ち、頭には三角ずきんを巻いている。
「テンマ君、ずっと風邪引いてるよね。大丈夫?」
「まあな。それよりオマエ、これから掃除でもすんのか?」
体調のことをあまり深く聞かれたくなくて、オレはさりげなく話題を変えた。オマエは特に疑う様子もなく、こくりと頷く。
「神父さまに、暖炉の掃除をするように言われたの。もうすぐ夏だし、暖炉は使わないだろうからって」
「オマエひとりでやるつもりか?」
「うん」
「ハッ。そんなの、できるわけねぇだろ。結構大変なんだぜ? 暖炉の掃除って。汚れるし、下手すりゃケガもするし」
そう言いながら、オレは前の家で働いていたときのことを思い出した。オレたち家族は貴族の家で下働きをしていて、暖炉の掃除をすることも、しょっちゅうあったのだ。
「でも、みんなは教会の地下に行ってて、お手伝いは頼めないし……」
オマエが少し困ったような顔をする。オレは短く溜息をつくと、縁側からさっと立ち上がった。無言のまま、オマエの手から布ハタキとバケツを奪い取ると、オマエがきょとんとした顔でオレを見つめ返してくる。
「テンマ君……?」
「オレがやってやる。オマエはそこで休んでろ」
「え……。でも、テンマ君、体調悪いんでしょ? テンマ君こそ、休んでたほうがいいんじゃ……」
「休めっつってんだから、四の五の言わずに休んでろ! いいな!」
何か言いたげなオマエを残して、オレはさっと歩き出した。自分だけ休みを貰っていることに引け目を感じていたオレにとって、暖炉の掃除は願ってもみない仕事だ。それに、非力な女であるオマエがひとりで重労働に挑もうとしていると知って、放っておけるわけなどなかった。
——オレが暖炉の掃除を終えて戻ってきたのは、日も傾きかけた頃だった。
「テンマ君……!」
再び縁側に現れた俺を見るなり、オマエがぱたぱたと駆け寄ってくる。余程気になっていたのだろう。そわそわと落ち着きのない様子が見て取れる。
「大丈夫だった? ケガとかしてない?」
「ああ。……つか、そんなに近付くなよ」
オレは手でオマエを押し止める仕草をした。オマエに煤(すす)がつくといけないと思ったのだ。それに、オマエの顔が近くにあると、なんというか気恥ずかしくなってしまう。だが、どうやらオマエは違う意味に取ったようで、しゅんとうつむいてしまう。
「ごめんね。私がやらなきゃいけないことだったのに、テンマ君に押し付けて……」
「ああ? 何言ってんだ。オレがやりたくてやったんだから、オマエが謝るのはおかしいだろ。つか、そんな顔させるためにやったんじゃねぇんだけど」
「うん……。ええと、ありがとう、テンマ君。おかげで助かったよ!」
オマエはそう言って、にっこりと笑った。夏の庭に咲く向日葵のように、眩しくて思わず目を細めてしまうような笑顔だ。オマエに釣られて、オレも思わず笑みをこぼす。——別に、礼を言ってほしかったわけではない。ただ、オマエがこんなふうに笑顔になればいいと思っていた。確かに、暖炉の掃除は骨の折れる仕事だが、オマエが笑ってくれるのであれば、毎日だってしたいくらいだ。
とはいえ、少し疲れてしまったので、オレはひと休みしようと縁側に腰を下ろした。目でちらりと合図すると、オマエも小さく頷き、オレの隣に腰を下ろす。
「もう日が暮れるね……」
オマエは、色の変わり始めた空を見てぽつりと言った。
「私、夕陽ってあんまり好きじゃないな」
「なんで?」
「だって、そのあとには夜が来るもの。……私、夜はきらい」
へぇ、とオレは気のない返事をした。というより、他にどうしようもなかった。オマエの言った言葉に、深い意味があると気付いたのは、それから十年以上経ってからのことだ。ともかく、そのときのオレには、なんでもない日常会話のひとつであるとしか捉えられなかった。だから、ついいつもの調子で——、
「夜はおばけが出るから怖い、とか?」
と、からかうような口調で言った。
「ち、違うよ……!」
オマエが慌てたように言い返す。
「じゃあ、おばけは怖くないってんだな? なら、今度肝試しすっか」
「え……?」
「今夜、教会の裏の墓地にふたりで行こうぜ。あそこには内戦で犠牲になった人がたくさん埋まってて、夜な夜な死者の霊が出るって噂だからな。肝試しには持ってこいだろ」
「や、やだよ……。私、肝試しなんて……」
「なんだよ、やっぱ怖ぇんじゃねぇか」
「だ、だから、違うってば……!」
「うおっ、あそこに死者の霊が!!」
「ひっ——!!」
オレが大声で墓地のほうを指さすと、オマエは声にならない悲鳴を上げ、小さな肩をびくりと揺らした。恐る恐る墓地のほうに視線を巡らせ、何もいないことを確かめると、再びこちらに向き直って、ぷっと頬を膨らませる。
「もー、何もいないじゃない! テンマ君の嘘つき!」
「ああ? こんな見え見えの手に引っ掛かるほうがわりぃんだろ。バーカ」
オレはそう言いながら、意地悪な笑みを浮かべた。オマエのことが嫌いで、いじめたいのではない。むしろ逆だからこそ、なんとかして気を引きたくなる。目の端に涙を溜めているオマエを見ると、己の企みが成功した満足感で、余計ニヤけてしまう。
「もういい。そんなこと言うテンマ君には、教えてあげないんだから」
カンカンになったオマエは、そう言ってぷいっと横を向いた。
「なんだよ、教えるって」
「だから、教えてあげないってば!」
「ンなこと言われたら気になるだろーが。……はいはい、オレが悪かったよ。謝るから、なんなのか教えろ」
下手に出て言ってみる。それでもオマエは膨れっ面をしていたけれど、やがて折れてくれたのか、ちらりとオレに視線を向ける。
「……オズごっこしようよ」
「はぁ?」
「だから、オズごっこしようって言ったの!」
オマエは『オズごっこ』の部分を強調して言った。だが、それがなんなのか、オレにはさっぱりわからない。怪訝な顔をしているオレに、オマエは説明を続けた。どうも、『オズの魔法使い』に見立てた遊びらしく、それで日頃の鬱憤を晴らそうということらしい。
「ねえ、テンマ君はどの役がいい?」
オマエはそう聞いたが、オレはすぐには答えられなかった。そもそもそんな遊びをする気が起きなかったし、それなら肝試しのほうがまだ楽しそうだ、と思ったからだ。だが、どうもオマエは本気のようだし、「やりたくない」などと言ったら傷付くかもしれない。オレはどうにか上手くかわす方法を考え、つい無言になった。
「……あれ? ここ、どうしたの?」
ふと、オマエが何かに気付いたように言った。オマエが見ていたのは、オレの右腕だった。暖炉の掃除をしているときに引っ掛けたのだろう。長袖が破れ、小さな穴が開いている。オマエは二度、三度まばたきをすると、そこにそっと手を伸ばしてきた。「見せて。縫ってあげる」などと言いながら。
「っ……! 触んな……!!」
オレは反射的にオマエの手を振り払った。はっとしたときにはもう遅く、オマエはその青い目をいっぱいに見開いていた。驚いたのはもちろん、いくらか傷付いたようにも見える。
「……わりぃ」
「ううん……。テンマ君、どうしたの?」
「……なんでもねぇ」
「でも……」
「なんでもねぇっつってんだろ! ……もういい」
オレは強引に話を切ると、さっと立ち上がった。オマエを傷付けたのだとしたら、もっときちんと謝るべきだと思う。だけど、オレは知られたくなかった。オレの『秘密』を。この右腕に、何が隠されているのかを。オマエにだけは、知られたくなかったのだ。
——その夜、オレはなかなか寝付くことができなかった。夕方、オマエに辛く当たってしまったことを引きずっていたし、そのせいか、いつもより少し具合が悪かった。時計の針の音がやけに大きく聞こえる。無理にでも目を瞑っていれば寝られるだろうか……そんなふうに考えていたとき、ふと時計の針ではない、何か別の音が耳に届いた。
(足音、か……?)
オレはそっと起き上がり、辺りを見回した。すると、ちょうど部屋から出て行くオマエの姿が見えた。こんな夜中に、一体どこへ行くのだろう。方向が違うので、手洗いではないだろうし……。まさか、本当に肝試しに行くつもりか?
様々な可能性を考えてみるが、結局答えは出なかった。そのまま布団に戻ろうかとも思ったが、なんとなくオマエのことが気になった。月明かりに照らされたオマエの横顔が、なんだか辛そうに見えたからかもしれない。オレはそっと布団を抜け出すと、他の皆を踏まないように気を付けながら、抜き足差し足で部屋の外へと向かった。
「……どこへ行ったんだ? アイツ」
廊下に出たオレは、ひとつひとつの部屋を見て回った。けれど、オマエの姿はどこにも見当たらなかった。どういうことだ? アイツ、夢遊病にでもかかってんのか……? そんなことを考えながら、次の部屋を覗こうとした瞬間だった。
「っう……」
突然、強い動悸がして、オレはその場に蹲った。手で掴み上げるようにして胸を押さえるが、それで治まるようなものではないことは、自分が一番よく知っている。発作が起き、心臓がきつく締め付けられ、僅かに呼吸することさえ難しくなる。眩暈がして、体がぐらりと揺れたかと思うと、オレは部屋の扉に体を打ちつけるようにして倒れた。
「テンマ君……!!」
どこからかオマエの声が聞こえてきて、オレは閉じかけていた目蓋をどうにか開いた。蒼白い月明かりの下、心配そうな顔で覗き込んでくるオマエの姿が映る。
「なんで……ここに……?」
オレは身を起こしながら、掠れた声で問いかけた。
「大きな物音がしたから、何があったのかと思って様子を見にきたの。テンマ君、大丈夫? 風邪だって言ってたけど、本当は病気なんじゃ……?」
「別に……なんでもねぇ」
「とてもそんなふうには見えないよ。それに——」
オマエはそう言うと、少し視線を下に向けた。何を見ているのだろう? そう思い、オレもオマエの視線を追う。そして、はっと息を呑んだ。
右腕に巻いていた、アームカバーがずれてしまっている。恐らく、先ほどドアに倒れかかった弾みで脱げたのだろう。露出した肌には、赤い斑点(はんてん)のようなものが浮かんでいる。誰もが気味悪がり、拒否した症状——決して癒えることのない病の証だ。
「……見るなっ!!」
オレは咄嗟に右腕を庇い、顔をぐっとうつむけた。オマエがどんな表情をしているのか見るのが怖かった。
「っ……!!」
目の前で立ち尽くしているオマエに、自嘲を含んだ声で言う。
「ほら、そんなとこでボケッと突っ立ってないで、さっさとどっか行けよ」
「……でも、放っておけないよ」
オマエはそう言うと、オレの右腕にそっと手を伸ばしてきた。アームカバーを直そうとしてくれたのだろう。けれど、オレは反射的にその手を払い退ける。
「触んな……!!」
「テンマ君……」
「なんで早く行かねぇんだよ。行けっつってんだろ!? それとも、オマエも病気になりてぇのか? 伝染ってもいいってのかよ!?」
これは本当は伝染る(うつる)病気ではない。けれど、あまりにも醜悪な症状を見て、伝染らないと信じろというほうが無理な話である。どんなに言葉を尽くしても、今まで誰も信じてはくれなかった。訴えれば訴えるほど、オレの病気を怖がり、遠ざかっていった。拒絶されるたびに、心は少しずつ傷を負い、体以上にぼろぼろになっていく。もうこれ以上、傷付きたくない。拒絶される前に、自分から拒絶しよう。そうすれば、傷は浅くて済む……。そんな思いから、オレは嘘をついたのだった。
——ところが。
「でもそれ、伝染らないよね?」
オマエがきょとんした顔で言う。一瞬、何を言われたのかがわからず、オレは思わず顔を上げた。オマエは綺麗な青い瞳で、じっとこちらを見つめてくる。
「どうしてそんな嘘をつくの? 私、知ってる。その病気、伝染らないよ」
「なんで……オマエが、そんなこと……」
「私のお父さんとお母さんも、同じ病気だったの。ふたりとも、病気がひどくなって、死んじゃって……それで、私とお兄ちゃんはこの孤児院に来たの」
オマエはそう言いながら、再びオレの右腕に手を伸ばした。指先でアームカバーを摘み、そっと二の腕のほうまで持ち上げる。恐らく、斑点に布が擦れないようにしてくれたのだろう。その優しく、慈愛に満ちた仕草を、オレはただただぼんやりと眺めた。顔を上げたオマエと、再び目が合う。どうしていいかわからずにいるオレに、オマエはそっと微笑みかける。その瞬間、オレはなんだか堪らない気持ちになって、思わずオマエを抱き締めた。
「て、テンマ君……? どうしたの……?」
「……病気のこと、絶対誰にも言うなよ」
オマエの肩に額を埋めながら、オレはぽつりとそう呟く。
この病気のせいで、オレはあらゆるものを失った。居場所も、両親も。挙げ句の果てに、弟にも深い傷を負わせてしまった。
だから、孤児院では絶対に知られることがないようにと、ひた隠しにしてきた。ここにいたい。もう二度と、何も、誰も失いたくない——そんな思いを伝えたかったのだが、胸が詰まって上手く言葉にすることができなかった。
オマエは、何も言わずにただ、こくりと小さく頷き、オレの背中に細い腕を回してくる。
「うん。誰にも言わないよ。テンマ君と、私——ふたりだけの秘密」
オマエはそう言うと、そっとオレの体を離し、小指を立てて見せた。間接が固いのか、上手く立てることができずに、薬指が少し浮いている。オレは苦笑を浮かべながら、オマエの小指に自分のそれを絡ませ、固く結んだ。
——それ以来、オマエはオレのことを何かと気に掛けてくれるようになった。元々、オマエのことは憎からず思っていたけれど、時が経つにつれ、オマエへの想いは次第にはっきりとしたものへと変わっていった。
「テンマ君!」
「お、来たな」
夏の夜。縁側に腰を下ろしていたオレは、向こうから現れたオマエに声を掛けた。今日は何十年に一度かの流星群が見られる日だからだ。他の奴らも誘おうかと思ったのだが、オマエを独り占めしたいという子どもっぽい欲に駆られたオレは、結局オマエだけを縁側に呼び出したのだった。
「今日は用事はいいのか?」
隣に腰を下ろしたオマエに話しかける。オマエが夜な夜などこかへ出かけていることは知っていたが、あの夜以来、オレはそのことについて深く尋ねたことはなかった。ずっと聞きそびれていたというのが一番の理由だが、なんとなく、聞いてはいけないことのような気もしていた。
「うん。今日は、もういいの……」
オマエはそう言うと、ぱっと夜空を見上げた。この話はこれで終わり——暗にそう言っているかのようだった。釈然としなかったが、これ以上考えても仕方がない。オレも、オマエに続いて夜空を見上げた。と、——そのとき。
「あ、流れ星!」
オマエが鈴の鳴るような声を上げた。ひとつ、ふたつ——黒い天幕の上を、白い光の筋が音もなく流れていく。夜空を焦がす星屑を、オレたちは夢中になって眺めた。時が経つのも忘れて、という表現があるが、そのときはまさに、そんな様子だった。
ふと、オマエが何か思い出したように、胸の前で両手を組む。
「あ? 何してんだ?」
「——願いごと。流れ星にお願いすると、叶うっていうでしょ?」
「そういや、そうか。すっかり忘れてたぜ。なあ、何をお願いしたんだ? 怖がりが直りますようにって?」
「もう、違うよ。テンマ君の病気が治りますようにって、お願いしたの」
オマエはそう言うと、再び目を瞑り、星に祈りを捧げた。オレはなんとなくきまりが悪くなり、夜空を見上げるふりをしてオマエから視線を逸らす。心臓がうるさいくらいに高鳴っていて、胸が破れそうだった。今すぐオマエを抱き締めて、『好きだ』とか、『愛してる』とか言いたかったけれど、まだまだ子どもだったオレにとって、それはとても難しいことだった。
——オマエがオレのために祈ってくれるのであれば、オレはオマエのために生きよう。
アナタの横顔を見つめながら、テンマはそう心に誓いました。
アナタを守りたい。けれど、この体ではどれほど役に立つかわかりません。
ライオンのように強くなりたいなんて贅沢は言わない。だけど、せめて、アナタの一番近くにいて、アナタの心を守りたい。
そう思ったテンマは、流れ星のあとでアナタにこう言ったのでした。
オズごっこをするときは、ドロシーの愛犬、トトの役がいい、と——。
けれど、やがて来る『別れ』によって、テンマはアナタという『居場所』を失うことになるのですが——それはまた、別のお話。
おしまい
——ある日のこと。テンマは昔馴染みであるアイルの様子を見に、彼の居城へと向かいました。ここ数日、アイルは城に閉じ籠もったきりで、一度も姿を見せていません。一体、何があったのでしょうか……?
城の門扉まで辿り着いたオレは、何かの獣をかたどったノッカーに手を伸ばした。取っ手を持ち上げ、その後ろにある金属板にぶつけると、ゴン……と重たく鈍い音が返ってくる。
「アイルー! オレだ、テンマだ。ここ、開けてくれよ!」
——しばらく待ってみるが、人が出てくる気配はない。オレは溜息をつくと、もう一度ノッカーに手を伸ばした。今日は弟のシアンから、アイルへの差し入れを預かってきている。それを渡さないことには帰れない。
しつこく呼び続けること数分。ようやく、扉の内側で錠がはずされる音がした。ギッ……という錆び付いた音と共に、鉄製の大きな扉がゆっくりと開かれていく。
「……なんの用だ」
姿を見せたのは、アイル本人だった。これだけ大きな城なのに、アイルは召使いのひとりも雇っていない。まあ、魔法でなんでも片付けてしまえるのだから、召使いなど必要ないのだろう。セカイを統べる大魔法使い——それがアイルの正体だ。
オレは数日ぶりに会うアイルを見て、ニッと口角を上げた。作り笑いではなく、純粋に昔馴染みに会えたことがうれしかった。
「いや、最近どうしてんのかなーと思って顔を見にきたんだ。前にみんなで会ってから、ずっと城に引き籠もってただろ?」
「…………」
「ああ、そうだ。——これ」
そう言いながら、オレは小脇に抱えていたものを差し出した。それは黄色い粒がいくつも集まってできた円錐状のもので、先のほうからは柔らかそうな長い髭(ひげ)が垂れている。
「なんだ、これは……」
アイルはどこか困惑したように眉根を寄せた。
「見りゃわかんだろ? トウモロコシだよ。シアンからの差し入れ。これ、アイツの家庭菜園で採れたんだ。本当はアイツも一緒に来るはずだったんだけど、急に仕事が入っちまってさ。で、代わりにオレが預かってきたってわけ」
「……何か、やけにボロボロじゃないか?」
「あー、そういや収穫するとき、カラスにつつかれたとか言ってたな。ま、食う分には問題ねぇだろ!」
「…………」
アイルはトウモロコシを見つめながら、眉間の皺(しわ)をますます深めた。やがて、右手を少し挙げると、遠慮の意を示す。
「いや、いい。気持ちだけ貰っておく」
「あ? なんでだよ。シアンの作る野菜、結構美味いんだぜ?」
「……最近、食欲がないんだ」
「え、大丈夫かよ? そういやオマエ、ちょっと痩せたよな。何か悩み事でもあんのか?」
「…………っ」
「アイル……?」
「オマエは……」
アイルがわずかに視線を落とす。その表情はどこか暗く、まるで深い淵を覗き込んでいるかのようだ。
「オマエは本当に何も覚えていないのか? 何もかも、すべて忘れてしまったというのか? だとしたら、なぜオレは——」
「お、おい、ちょっと落ち着け」
オレは思わず苦笑を浮かべた。
「さっきから何わけわかんねぇこと言ってんだよ? 覚えてねぇとか、忘れたとか、オレがいつそんなこと言った? つか、何を忘れるってんだよ?」
「昔のこと……このオズのセカイに来る前のことだ」
「あぁ? 来るも何も、オレは元からここにいた。オマエだってそうじゃねぇか」
「オレが……?」
「そうだよ。オマエはすげぇ大魔法使いで、昔からこの城に住んでる。シアンも、ハルも、ケイも、チーも。みんなこのセカイで、ずっと一緒に暮らしてきたじゃねぇか。オマエのほうこそ、忘れちまったのか?」
「……オレを、騙してるんじゃないだろうな?」
「はあ? そんなことして何になるってんだよ」
「それは……」
アイルが言葉を詰まらせる。オレはアイルの返事を待っていたが、やがて溜息を吐いた。アイルといえば、冷静さと賢明さが服を着て歩いているような男だ。そんな彼が、全く持って意味のわからないことを口にし、少し混乱してさえいる。これはただごとではないな、とオレは思った。とはいえ、アイルの疲れた表情を見ているとしつこく追求するのも躊躇われる。
「オマエ、やっぱ疲れてんだろ。いいから、このトウモロコシ食って元気出せよ」
オレはそう言うと、アイルにトウモロコシを押し付けた。アイルはなんとも言えない表情をしていたが、やがて諦めたようにトウモロコシを受け取った。
と——そのとき。
「っ……!」
不意に違和感を覚え、オレは思わず胸を押さえた。何かに掴まれたように心臓が締め付けられ、呼吸もまともにできなくなる。あっという間に意識が遠退いて行き、視界がぐらりと揺れた。がくりと世界が傾いた次の瞬間、オレは地面に膝を付いていた。
「おい、大丈夫か……!」
アイルが慌てたように言いながら身を低くする。
「いつもの発作だ……ちょっと待ってりゃ、すぐ治まる……」
「そうか、オマエもその病気にかかっているんだったな」
「あ……? 他に同じ病気の奴がいんのか……?」
「……それも、覚えていないというわけか……」
アイルはまた何か意味不明なことを呟いた。
それから少ししてオレの発作は治まり、オレは土で汚れた膝を手ではたきながら立ち上がった。
「なんか、悪ィな。情けねぇとこ見せちまって」
「気にするな。それより、早く帰って休め」
「ああ、そうする——と言いたいところだけど、これから仕事なんだよな」
「仕事?」
「ああ、そういやお前には言ってなかったっけ? ちょっと前から、『人間の村』で門番やってんだよ。こんな体だから、いつまで続けられるかわかんねぇけどな」
「体が辛いなら、少し休養したほうがいいんじゃないか?」
「そうしたいのは山々だけど、働かなくても食っていけるほど金に余裕があるわけでもねぇし……。それに、オレが元気にやってればシアンも安心するだろ? ただでさえ出来損ないの兄貴なんだ。これ以上、余計な心配させたくねぇんだよ」
オレは自嘲気味に言った。アイルはどこか複雑そうな顔をしていたが、やがて、そのアイスブルーの瞳をオレに向け、おもむろに口を開く。
「そんなことはない」
「え?」
「シアンはお前にいつも感謝していた。お前にはいつも助けられている、お前は優しい兄だ、とな。だから、お前は出来損ないの兄などではない」
「お、おう……」
意外な言葉に、オレは思わずたじろいだ。シアンがアイルにそんなことを話していたとは思わなかったし、アイルの口からそれを告げられたことにも驚いた。何度も言うが、アイルは冷静で賢明な男だ。それに、ともかく厳しくて、頼りにはなるけれど、どこか他人を寄せ付けない冷たい雰囲気を纏っている。そのアイルに励ましの言葉を掛けられたのだから、驚かないわけにはいかない。
「どうした? そんなにまばたきをして」
「あ、いや……なんか、お前にそんなことを言われるとは思わなくてさ。ありがとな。お世辞でもうれしいぜ」
「お前はオレのことを、お世辞を言うような男だと思っているのか? だとすれば、お前には少し説教をする必要がありそうだな」
アイルはそう言うと、何か考えるように目蓋を伏せた。今のはアイルなりの冗談だろう。胸にあたたかなものが拡がっていき、オレは思わず笑みをこぼす。
「じゃ、そろそろ仕事に行ってくる。オマエも、あんまり無理すんなよ」
オレはそう言うと、ひらりと手を振った。その一瞬、アイルの冷たい眼差しが、ほんの少し和らいだように見えた。
お城からの帰り道、テンマはアイルに言われたことを思い出しました。自分は兄失格だ——思っていたテンマにとって、アイルの言葉はとてもうれしいものでした。
残された時間は、限られています。
いつ『そのとき』が来てもいいように、シアンに出来る限りのことをしてやろう……。
テンマは決意を新たにすると、夕暮れに染まる森の小径をひとり歩いて行きました。
おしまい
テメェ、よっぽど噛み付かれてみてぇだな……。
いいぜ? だったら、望み通りにしてやる。
ハッ、あっさり組み敷かれて……女なんて簡単なもんだな。
はあ? テメェ、自分のしたことがわかってねぇのか。
親から教わらなかったのかよ? 人の嫌がることはしちゃイケマセン、って。
……ああ、そういや記憶喪失だったな、オマエ。
だったら、今ここで教えてやるよ。
人の嫌がることをすると、全部自分に返ってくるんだって。
——こんなふうに、な。
ん……っ。
……あァ? なんだよ、これ、
まさか、キスされて感じたとか言うんじゃねぇだろうなァ?
ったく、どこまでヤラシイ女なんだよ、オマエは……!
ハッ、涙で顔グチャグチャ……いいザマだな。
……あぁ? なんだ、その顔。まだわかってねぇのか。
それとも、オレのことを挑発してやがんのか? こんなもんじゃ足りねぇって。
いいぜ? だったらシてやるよ。
二度と妙な真似をしねぇように、痛い目を見せてやる。
この体の奥まで、たっぷり躾けてやるよ……。
飼い犬に躾けられるなんて……主人失格、だな?
昔々、あるところに孤児院がありました。そこでは、ひとりの少女と六人の兄弟が暮らしていました。少女は、そう——アナタです。
アナタたちは様々な事情から、この孤児院に引き取られました。身寄りのないアナタたちは、屋根のある家で暮らせることをとても喜びました。けれども、そこは決して楽しい場所ではありませんでした。孤児院の主(あるじ)である神父が、アナタたちに酷い仕打ちをしてきたのです。いつかここから抜け出そう。ここではない、どこか新しい『セカイ』で、みんなと幸せに暮らそう——アナタと六人の兄弟たちはそんなふうに話しながら、日々を懸命に生きていました。
これは、そんな頃のお話——。
おれと兄のテンマが教会の孤児院にやってきたのは、もうすぐ春になろうかという頃だった。
「孤児院に新しい子供が来るそうだ」
あーちゃん——アイルさんからそう聞かされたあんたは、孤児院の玄関でおれたちが到着するのを待っていた。後から聞いた話だと、あんたはおれたちが来るのをとても楽しみにしていて、夕食のときもその話ばかりしていたそうだ。「どんな子なんだろう? 仲良くなれるかな?」そう言って、期待に胸を膨らませていたらしい。
「こんにちは、待ってたよ」
おれたちが孤児院に到着するなり、あんたはおれたちのほうに駆け寄ってきた。
「初めまして。テンマ君とシアン君だよね? 私も、ここに住んでるの。今日からよろしくね」
あんたはそう言うと、笑顔で手を差し出した。銀糸のような髪が肩の辺りでふわりと揺れる。おれではない人が見たら、綺麗だなと思ったかもしれない。けれど、おれは特に何も感じなかった。銀色の髪も、宝石のような青い瞳も、おれの心を動かすことはない。
「ああ、よろしくな」
兄さんはそう言いながら、あんたの手を握り返した。あんたはにっこり微笑むと、今度はおれのほうを見る。
「シアン君も、よろしくね」
「…………」
おれは無言で視線を逸らした。兄さんのように、握手をすることもない。無反応なおれを見て、あんたが戸惑ったような顔をする。横にいた兄さんは複雑な表情をしていた。それでもおれは黙ったままで、あんたと目を合わせることさえない。
「わりぃ。コイツ、ちょっと気分が悪いらしくってさ」
兄さんは優しい嘘をつくと、無理に笑ってその場を終わらせた。
その孤児院というのは、ともかく最低なところだった。正確には、孤児院を管理する神父がどうしようもないクズだったのだ。近所の人は彼のことを「哀れな孤児を引き取り世話をする優しい神父」だと思っていたようだけれど、それは仮面に過ぎない。彼の正体は、いわゆる死の商人——己の利益のためだけに国や組織を問わず武器を売る、良心のかけらもない人間だった。
けれど、神父の悪行はそれに留まらない。なんと、神父は武器を製造するため、おれたち孤児院の子供を使った。教会の地下に工場を設け、そこでおれたちを強制的に働かせたのだ。おれは今すぐにでも逃げ出したかったけれど、大人たちが常に環視の目を光らせていたし、孤児院を出たところで他に行く宛などない。たとえ粗末でも食べ物が与えられるだけマシだと思い、おれは辛い日々に耐えた。
そんな環境だったこともあり、おれはますます誰とも関わらなくなっていった。あんたはなんとかおれと打ち解けようとしつこく話しかけてきたけれど、おれはことごとく無視した。仕事をしているときも、食事をしているときも、頑なに口を閉ざした。
「ねえ、シアン君。これに絵を描こうよ」
ある日のこと。あんたはそう言って、おれに『あるもの』を差し出した。それを見た瞬間、おれはまるで石になったかのように動けなくなってしまう。
あんたが差し出してきたもの——それは、卵だった。
「今日は教会のお祝いの日なんだよ。毎年、この日は卵に絵を描いて飾ることになってるの。だからシアン君も——はい!」
あんたはおれの手に卵を渡した。その瞬間、おれの脳裏に過去の記憶が呼び起こされる。人が棒で繰り返し殴られる音。おれの隣で、声を殺して泣く兄さん。そして、——冷たい地面に横たわる父母の遺体。
「っう……」
おれはその場に蹲り、自分の体を抱いた。震えが止まらない。胸が苦しくなり、息もできなくなる。涙でぼやけた視界に割れた卵が映り、おれは思わず手で口元を押さえた。頭の中では、ずっと『声』が響いている。おまえのせいだ。両親を死なせたのは、おまえだ——そんなふうに、誰かが繰り返し囁いている。
「シアン君!? どうしたの? 大丈夫……!?」
あんたはおれのそばに屈むと、背中に手を伸ばした。心配なんかいらない、おれに関わらないで——そう言おうとしたけれど、おれはもう、口を開くことさえできなかった。
その日の夜、おれはあんたと夕食の片付けをした。昼間、あんなことがあったし、あんたとは極力距離を置きたかったけれど、当番なので仕方がない。おれたちは孤児院の裏手にある井戸のところまで行くと、運んできた皿を地面に置いた。
「ねえ、シアン君って食べ物だと何が好きなの?」
あんたは皿を水に浸しながら、おれに話しかけた。おれは無視を決め込んだけれど、あんたはひとりで話を続ける。
「私は、いちごが好き。昔、お兄ちゃんがよく分けてくれたの。いちごって、甘くて柔らかくて、食べると幸せな気分になれるよね。シアン君はどう? 何か好きな食べ物はある?」
「…………」
「うーん……じゃあ、色は何色が好き? 私はやっぱりピンクかなあ。あ、でも青もいいよね。教会の庭にスミレの花が咲いてるんだけど、すごく可愛いんだよ」
「…………」
「……ねえ、シアン君。私、何かシアン君の気に障ることしちゃったかな?」
あんたは皿を洗う手を止めると、恐る恐る尋ねた。
「私、鈍感だから、気付かないうちにシアン君の嫌がること、してしまってたかもしれない……。もしそうなら謝るよ。だから、お願い。話をしてくれないかな。私、シアン君と仲良くなりたいの」
あんたの双眸が真っ直ぐおれに向けられる。その青い瞳は綺麗すぎて、いっそ怖くなるほどだった。おれは思わず目を逸らし、必死に唇を噛み締めた。あんたが話しかけてくれるたび、おれはつい口を開きそうになる。あんたが優しくしてくれるたび、思わず甘えてしまいそうになる。おれには、そんな権利も資格もないのに。だってそうじゃないか。おれは罪を犯したんだから。決して許されない罪を……。
おれが沈黙していると、あんたは切なげに眉を寄せたまま、再び皿に視線を戻した。おれも次の皿を洗おうと、積み上げた食器に手を伸ばす。と、——その瞬間。
「あっ……」
手を滑らせ、皿を地面に落としてしまう。皿は派手な音を立てて割れ、辺りに破片が散らばる。
「大丈夫!? ケガはない!?」
あんたは慌てておれの手を取った。怪我がないことを確かめ、ほっと息を吐くと、割れてしまった皿に目を向ける。
「どうしよう……神父さまに怒られる……」
あんたは怯えた声で言った。怒られるくらいならまだいい。神父の虫の居所が悪ければ、折檻されるかもしれない。皿を落としたのはおれだけれど、きっとあんたも一緒に仕置きされるろう。おれは胸に痛みを覚えた。あんたの怯えた顔を見ていると、ますます罪悪感が強くなる。おれは思わずあんたから視線を逸らした。そして——。
「あ……あんたが悪いんだよ。あんたが横から話しかけてくるから、気が散ったんだ」
おれはつい、そんなふうに言った。そうでもしないと、罪の意識に押し潰されそうだった。そのくせ、あんたの困惑した顔を見た瞬間、おれはまた罪悪感を覚えてしまう。おれは皿の破片をかき集めると、近くにあった木の根元に埋めた。あんたはずっと心配そうにしていたけれど、おれは最後まで無言を貫いた。
——あんたが明るい声でおれに話しかけてきたのは、その翌日のことだった。
「ここにいたんだ」
孤児院の縁側に腰を下ろしてぼんやりしていたおれは、あんたの声にはっと振り向いた。あんたは笑顔で近付いてくると、おれの隣に腰を下ろす。昨日、あんなことがあったのだ。いい加減、見限られるだろうと思っていたのに、あんたはいつもと変わらない様子でおれに話しかけてきた。おれは少し戸惑い、あんたからそっと視線を逸らす。
「……何か用?」
おれはひとりごとのようにぼそりと言った。
「あのね、今度みんなで『オズごっこ』をしようと思うの」
「……? 何それ?」
「オズの魔法使いっていう物語があるでしょ? あの物語を真似して遊ぶの。そのままだと面白くないから、ちょっとだけ内容を変えて。ねえ、シアン君はどの役がいい?」
「……おれも一緒に遊べっていうこと?」
「だめ、かな……?」
「……なんで、あんたはおれに構うの?」
「え?」
おれの質問に、あんたは不思議そうに首を傾げる。
「なんでそんなにおれのことを気に掛けるの? おれはあんたと話したくない。あんたと関わりたくない。あんただけじゃなく、みんなとも……」
「シアン君……」
「いいじゃん、おれのことなんか放っておけば。おれがいなくたって、あんたは何も困らないはずだよ? なのに、どうしておれに構うの? ねえ、どうして?」
おれは畳み掛けるように言った。あんたは困惑したような顔でおれを見つめる。何か言いたいけれど、上手く言葉にならないといった様子だ。おれは自分の膝に視線を落とした。——あんたを困らせたいわけじゃない。あんたに意地悪をしたいわけじゃない。だけど、おれはあんたの優しさを受け入れるわけにはいかないんだ。あんたの好意を信じちゃいけない。だって、おれは悪いことをしたのだから。両親が死んだのも、兄さんに涙を流させたのも。全部、おれのせいだ。何もかも、おれが悪いんだ。
だから、おれは罰を受けなくてはならない。悩んで、苦しんで、辛い思いをしなければならない。あんたに優しい言葉を掛けてもらう資格もない。もっと酷い言葉で罵られて、責め立てられるべきなんだ。
「っ……」
おれは服の裾をぎゅっと握り締めた。胸が苦しくて、無意識のうちに涙が込み上げてくる。辛い、苦しい、いっそ消えてしまいたい——罰を受けなければと思う一方で、つい、そんなふうに考えてしまう。
「シアン君……?」
あんたが心配そうな顔で覗き込んでくる。おれはあんたを振り切るように、ぱっと縁側に下りた。そして——。
「……じゃあ、『カカシ』がいい」
「え?」
「あんた、さっき聞いただろ? どの役がいいかって。おれはカカシがいい。カカシみたいに、頭の中が空っぽになってしまえばいい。そしたら……もう、何も考えなくて済む……」
おれはそう言うと、あんたの返事を待たずに走り去った。
——後から聞いた話なのだけれど、おれが去った後、あんたは兄さんと話をしたそうだ。
「シアン君に何かあったの?」
そう聞かれた兄さんは、答えるかどうか迷った。けれど、このままでは弟がみんなの輪に溶け込めない……兄さんはそう考え、あんたに少しだけ昔の話をした。おれたち一家は貴族の家に仕えていたこと。その家の台所から、おれが卵を盗んだこと。おれを庇った両親は棒叩きにされ、殺されてしまったこと。それ以来、おれは卵を見ることさえできなくなってしまったこと——。
「シアンはオレのために卵を盗んだんだ。その……オレはちょっと体調崩してて、おまけに色々あって落ち込んでた時期でさ。そんなオレを励まそうとしたんだ。シアンに傷を負わせたのはオレだ。オレのせいで、シアンはあんなふうになっちまった。だから……オレにはシアンを慰めてやることはできねぇ。オレには、そんな資格ねぇから」
その頃、おれは教会の裏山にある、モミの木の下で蹲(うずくま)っていた。今はもう誰とも会いたくなかった。できるものなら消えてしまいたかったけれど、そんなことができるはずもない。おれは膝を抱えると、そこに顔を埋(うず)め、春の風に揺れる木の葉の音を聞いていた。
……その音の中に、ふと小さな足音が混じる。
「——シアン君」
声を掛けられ、おれははっと顔を上げた。そこにいたのは、あんただった。あんたはおれの前に屈み込むと、いつものように優しい笑顔を浮かべる。
「テンマ君に聞いてきたの。シアン君が、裏山のほうに行くのを見たって」
「それできたの? どうして……?」
「決まってるじゃない。シアン君が心配だからだよ」
「……意味わかんない……」
おれは泣きそうになるのを堪えながら言った。
「なんでおれの心配なんかするの? どうしておれを放っておいてくれないの? おれ、あんたに会いたくないんだよ。だからこんなところまで逃げてきたんだよ。なんでそれがわからないの? それとも、おれに嫌がらせしてるの?」
「シアン君、落ち着いて。私は——」
「もうたくさんだ……!!」
おれはそう叫ぶと、咄嗟にあんたを突き飛ばした。そのまま逃げようとしたのだけれど、あんたは後ろからおれの手を掴み、振り向いたおれを正面から抱き締める。
「何するんだよ!? 離せ……!!」
「嫌よ、離さない。シアン君が私の話を聞いてくれるまで、絶対離さない……!」
「っ……」
おれはあんたを突き放そうと、あんたの腕の中で暴れた。あんたの髪を引っ張ったり、あんたの肌を引っ掻いたりする。それでも、あんたはおれを離さなかった。それどころか、ますますおれを強く抱き締めた。まるで自分の体温を分け与えるかのように、強く、強く。
「なんなんだよ、あんた……」
おれの声は、涙で掠れていた。あんたを拒絶したい、拒絶しなければいけない——そう思うのに、もう体は一ミリも動かせなかった。あんたが少し力を緩め、おれの目を真っ直ぐに見つめる。青い瞳には、おれの姿がいっぱいに映っていた。
「——ずっと、ひとりで苦しんでたんだね」
あんたは、まるで自分が辛い目に遭ったかのような表情で言った。
「もう何も考えたくなくなるくらい。カカシになりたいなんて思うくらい……。ずっとずっと、苦しんできたんだね」
「…………」
「でもね、もういいんだよ。シアン君は、もう充分苦しんだよ。いっぱい泣いて、いっぱい苦しんで、自分を責め続けてきたんでしょう? だから……もういいんだよ。もう自分を責めないで。ひとりになろうとしないで。あなたは、悪くないよ」
あんたはそう言うと、またおれのことを抱き締めた。あんたの鼓動が、直接伝わってくる。優しい音——この世界にあるどんな音よりも、優しくあたたかな音だった。おれは思わず腕を回し、あんたの小さな体を抱き返した。あんたに格好悪いところは見せたくなかったのだけれど、溢れ出した涙を止めることは、もうできなかった。
——その後、シアンは少しずつみんなに打ち解けていきました。
そして、みんなとオズごっこをする中で、アナタにこう話しました
あんたは「悪くない」って言ってくれたけど、卵を盗んだのは事実だ。おれは自分が犯した過ちにきちんと向き合わなきゃいけない。これから自分はどうすべきなのか、ずっと考え続けていかなければいけない、と。
「だから、おれは『カカシ』を選ぶよ。最後に知恵を手に入れるカカシを——」
そう言って、シアンは初めてアナタに笑顔を見せました。それは、まるで春の日溜まりのような素敵な笑顔でした。アナタがいれば、これからもずっと笑っていられる。どんなに辛くても、アナタという光があれば生きていける——シアンはそんなふうに思うのでした。
けれど、やがて来る『別れ』によって、シアンには再び『闇』が訪れるのですが——それはまた、別のお話。
おしまい
——あるところに、シアンという男の子がいました。シアンはジュウニンの村の墓地で墓守(はかもり)をしているのですが、度々仕事を休んでは、ある人物の元へと通っています。その人物とは一体……?
「兄さん、久しぶり!」
『人間の村』の門の前に兄さんの姿を見つけると、おれは大きく手を振った。
兄さんはテンマという名前で、『人間の村』の門番をしている。人間の村というのは、読んで字の如く『人間』だけが住む集落で、おれのいるジュウニンの村からは、歩いて一日もかかる。兄さんに会おうとすると、当然、墓守の仕事は休まなければならないのだけれど、村の人はおれがサボッているのだと思っているらしく、心外だ。
「シアンじゃねぇか! オマエ、今日は来るって言ってたか?」
兄さんが、驚いた顔で駆け寄ってくる。夏の太陽の下、ずっと門の前で立っていたせいだろう。兄さんの額には汗が滲み、赤いメッシュの入った前髪が張り付いている。
「ううん、言ってない。兄さんを驚かせようと思って。……ね、今日は兄さんちに泊まっていってもいい?」
「しようがねぇなぁ……。つか、来るなら来るって言えよ。こっちだって、準備ってもんがあるんだから」
「えー。言ったところで、兄さんの部屋が片付いてたことなんてないじゃん。この前も、美味いもん食わせてやるっていうから楽しみにして行ったのに、変なスルメみたいなの出してくるし……どうせ、用意し忘れて台所にあるものを適当に出したんでしょ?」
「オマエって、素で痛いところ突いてくるよな……」
「それはそうと、今日は兄さんに差し入れを持ってきたんだ」
おれはそう言うと、小脇に抱えていた袋を差し出した。封を開けると、いかにも苦そうな匂いが鼻を突く。
「なんだ、これ……?」
兄さんは露骨に顔をしかめた。おれは少し笑いながら、袋を兄さんの手に持たせる。
「薬だよ。薬草を煎じ詰めて作ったんだ。……気休めにしかならないと思うけど、それでも症状を和らげることはできると思う」
「いつも悪ィな」
「おれのほうこそ、こんなことしかできなくて、ごめん……」
そう言いながら、おれは少しうつむいた。
昔から、兄さんは体が弱かった。弱音を吐くような人ではないから、決して口にはしないけれど、門番の仕事も相当無理をして続けていることを、おれは知っている。もっとお金があれば、兄さんも療養に専念できるのだけど、……あいにく、我が家は下から数えたほうが早いくらいの貧乏だ。
おれにとって、兄さんは唯一の家族。かけがえのない存在で、なんとしてでも助けたいと思う。それなのに、全くと言っていいほど力になることができていない現状が、歯痒くてならない。
「こーら、暗い顔すんな」
ピンッ、と兄さんの指がおれの額を弾く。
「いてて……」
「また何か良くねぇこと考えてただろ。なんでも悪いほうに考えるの、オマエの悪い癖だぞ?」
「でも……」
「『でも』禁止!」
「……ごめん」
「謝んなよ。ったく、オマエのほうが病人みてぇな顔してるじゃねぇか。……しようがねぇな」
そう言うと、兄さんはおれの肩に手を置き、ニッと白い歯を見せる。
「もうすぐ交代要員が来る。そしたら、散歩に行こうぜ!」
——そんなわけで、おれと兄さんは湖まで散歩に出かけた。時折、湖のほうから涼しい風が吹いてきて気持ちがいい。振り向くと、日差しを反射してきらきらと輝く湖面が見える。まるで宝石が浮かんでいるようで、あまりの美しさにおれはしばらく見入ってしまった。
「こうしてると、昔のことを思い出すな」
湖の周りを歩きながら、兄さんが言った。
「昔のこと?」
おれは兄さんの隣を歩きながら首を傾げる。
「ほら、ジュウニンの村の近くにも湖があるだろ? 昔はよくそこで遊んだじゃねぇか」
「うーん、そうだっけ……?」
「なんだよ、忘れちまったのか?」
「それって、何歳くらいの話?」
「それは、……あれ、いつだっけ?」
調子良く話していた兄さんが、不意に不思議そうな顔をする。眉を顰めたり、首を捻ったりするけれど、やはり思い出せないようだ。
「おかしいなぁ。確かに遊んだような気がするんだけど……」
「おれも、時々そういうことがあるんだよね。昔のことを思い出そうとすると、頭の中に霞(かすみ)が掛かったようになる。それに——」
「それに?」
「……ううん、なんでもない」
おれはそっと視線を逸らした。『あの話』をしたら、きっと兄さんを心配させるだろう。たびたび同じ『悪夢』を見るのだけれど、その原因が思い出せなくて、ずっと苦悩している、などと——。
「まあ、無理にとは言わねぇけど、何かあるなら言えよ」
屈託のない声音で言うと、兄さんはおれの背中を軽く叩いた。兄さんの優しさが胸に染みて、おれはうれしい反面、申し訳ない気持ちになる。兄さんを心配させたくなかっただけなのに、いい弟でいたかっただけなのに、その気持ちが空回りして、結局兄さんに気を遣わせてしまう——おれのいつものパターンだった。
「そういや、この辺って財宝伝説があるんだよな」
湖面に視線を戻した兄さんが、脈絡のないことを言う。もしかしたら、話題を変えようとしてくれたのかもしれない。
「財宝伝説?」
「そ。昔、どこぞの貴族が埋めた財宝が、この辺に眠ってるらしい。まあ、『人間』共の言ってたことだから、怪しいもんだけどな」
「へぇ。でも、もし本当に財宝があったらいいよね。一気にお金持ちになれるし!」
「まあな。よし、どうせ時間はあるし、試しにこの辺を掘ってみるか」
「いいね、賛成!」
おれはそう言うと、背負ってきたスコップを下ろした。いつも墓穴(はかあな)を掘るのに使っている、愛用のスコップだ。
「オマエ、なんでそんなもん持ってきてんだよ……」
兄さんが、怪訝そうな顔で言う。
「え、変かな? ハルくんだって、斧持ち歩いてるじゃん」
「ハルは山の見回りがあるからだろ」
「おれだって、その辺に死体が落ちてるかもしれないし」
「いや、そんな場面、滅多にねぇから……」
「まあ、いいじゃん。ともかく財宝を探そうよ。あ、そうだ! 兄さんの嗅覚で、財宝のありそうなところを当ててよ」
「ちょっ、いくらなんでも無茶振りだろ」
「えぇー、じゃあできないの? おれ、兄さんのこと尊敬してたのに、残念……」
「……」
兄さんは何かぼそぼそと呟くと、辺りを見回し、「この辺じゃね?」と地面を指さした。いかにも適当に言ったという感じだったけれど、他にアテがあるわけでもない。おれは兄さんの指さした位置にスコップを当てると、ざくざくと小気味良い音を立てて土を掘り返した。
そして、ひたすら土を掘り続けること半時間——。
「……! 宝箱だ!」
現れたのは、両腕で抱えなければ持ち運べないような大きな箱だった。絵に描いたような宝箱で、蓋のところには南京錠が掛けられている。おれと兄さんは協力して宝箱を引き揚げ、スコップの先で南京錠を壊した。いつでも開けられる状態になった宝箱を前に、おれと兄さんは息を呑む。
「まさか、本当に宝箱が出てくるとはな……」
「う、うん……。でも、こんなにあっさり見つかっちゃっていいのかな。実はパンドラの箱で、開けた瞬間、ありとあらゆる災厄が起きるとか……」
「オマエ、どこまでもネガティブだな……。仕方ねぇ、オレが開けてやるよ」
兄さんはそう言うと、宝箱の蓋に手を掛けた。ぐっと力を込め、ゆっくりと蓋を開いていく。——すると。
「……なんだ、これ?」
「バッジ……?」
宝箱の底に眠っていたもの——それは、何か堅い材質でできたバッジだった。カカシの絵が描かれたものと、犬の絵が描かれたものが、それぞれ一つずつ入っている。
「なんだよ。ご大層な箱に入ってるから、どんな財宝かと思ったら……」
脱力したのか、兄さんは溜息を吐きながら肩を落とした。
「きっと、アレだな。子供が遊びで埋めて、そのまま忘れちまったんだろ」
「うん……」
「あ? どした? 元気ねぇな」
「だって……これで、お金持ちになれると思ったのに……」
おれはしょんぼりとうつむいた。これで兄さんを助けてあげられる、楽にしてあげられると思ったのだけれど、……世の中、そう簡単なものではないらしい。落胆以上に、兄さんに対して申し訳ない気持ちが膨らんで、おれは胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
と、——そのとき、兄さんが宝箱のバッジを手に取った。何をするつもりだろう? と、おれは兄さんをぼんやり見つめた。すると、兄さんがカカシのバッジをおれのサスペンダーに付け、犬のほうのバッジを自分の胸元に付ける。
「おそろい、だな」
そう言うと、兄さんはニッと笑みを見せた。おれはしばらくきょとんとしていたけれど、兄さんの笑顔を見ていると自然と頬が緩んでいく。最後には、おれも兄さんに釣られて笑った。
——湖での散歩を終えたふたりは、テンマの家へと帰っていきました。
帰り道、シアンはバッジを見て何度も微笑を浮かべました。その反面、やっぱりお金が欲しいという気持ちもあります。財宝がだめなら、他に何があるだろう……? シアンが問いかけると、テンマはしばらく考えてからこう答えました。
「珍しいものを手に入れてくるとか?」
珍しいもの……。シアンは一生懸命考え、やがてあるものに辿り着きました。
——そうだ。このオズのセカイには、とびきり珍しい存在がいる。
みんなから忌み嫌われている一方で、『役に立つ』からと、高値で取引されている存在……。それを捕まえて売り飛ばせば、きっといいお金になるだろう。
シアンはぽんと手を打つと、不思議そうに首を傾げるテンマの横で、にやりと腹黒い笑みを浮かべるのでした。
おしまい
あんた、見かけによらず強情だね。そんなに『鍵』が欲しいんだ。
でも、出ていくのはダメだよ? あんたはまだここにいなきゃ。
どうしてって、それは……。
それはね。あんたのこと、好きになっちゃったから。
えー? 何、その微妙な反応。おれの言葉が信じられない?
じゃあ、これでどう? ……んっ。
ふふ、これで信じられるでしょ? だって、好きじゃなきゃキスなんてしないもんね。
ほーらぁ。口、開けて? 開けないなら、こうしちゃうよ?
……んん……ふ……。
はぁ……あんたとこうしてると、熱くなってくる。
もっといろんなこと、シてみたくなっちゃう……。
……ねえ、おれとイイコトしようよ。
大丈夫だよ。そのうち、あんただって気持ち良くなるから。
怖いなら、目を閉じれば? なんなら、おれが閉じさせてあげよっか? んっ……。
ふっ……あんたって、目蓋も柔らかいんだ。それに、睫毛もすごく長い。
ねえ、舐めてもいい?
でも、それだと目玉まで舐めちゃいそう。そんなことされたら、痛いんだろうなあ。
ふふ、しないよ。
まあ、あんたが勝手なことしたら、本当にしちゃうかもね。
……たとえば、おれに断りなく『鍵』を探しに行くとか。
でも、あんたはそんなことしないよね?
信じてるよ。だから、おれをがっかりさせないで。
いつまでも、おれのそばにいてよ。……ね?
昔々、あるところに孤児院がありました。そこでは、ひとりの少女と六人の兄弟が暮らしていました。少女は、そう——アナタです。
アナタたちは様々な事情から、この孤児院に引き取られました。身寄りのないアナタたちは、屋根のある家で暮らせることをとても喜びました。けれども、そこは決して楽しい場所ではありませんでした。孤児院の主(あるじ)である神父が、アナタたちに酷い仕打ちをしてきたのです。いつかここから抜け出そう。ここではない、どこか新しい『セカイ』で、みんなと幸せに暮らそう——アナタと六人の兄弟たちはそんなふうに話しながら、日々を懸命に生きていました。
これは、そんな頃のお話——。
俺は昔から乱暴なところがあった。言葉遣いはもちろんのこと、何か気に入らないことがあると、すぐ物に当たってしまう。なぜ自分はこうなのだろう——俺は幼心にそう思い、そしてひとつの考えに行き着いた。多分、俺は『臆病』なのだ。
他人や自分の気持ちと正面から向き合う『勇気」がない。だから、すぐに力に頼ってしまう。自分の弱さをごまかすため、力で相手を黙らせようとするのだ。
「オマエ、親父にそっくりだな」
いつだったか、俺は双子の兄弟であるチカゲにそう言われたことがある。俺たちの父親は、何かあるとすぐ母親に手を上げていた。母親は母親で、他所(よそ)に男を作り、何日も留守にすることもしばしばだった。俺は父親の乱暴な性格を、チカゲは母親の奔放な性格を受け継いでしまった——というのがチカゲの見解だ。俺の目の色は父親と、チカゲのオッドアイは母親と同じだというのは、皮肉としか言いようがない。
チカゲは親に似たところがあることを嫌悪していたが、それは俺も同じだった。俺は自分の乱暴な性格を決して肯定していたわけではない。むしろ、嫌だと思っていた。けれど、『臆病』な自分を他者に知られるのは怖かった。頼れる者のいない環境では、虚勢を張って生きるしかない——俺は自分自身にいいわけをし続け、チカゲやハルトと共にこの孤児院に来る頃には、乱暴な性格がすっかり板に付いてしまっていた。
「——こんなところにいたのか」
俺は孤児院の庭にいたオマエに声を掛けた。日溜まりの中、大きな木を見上げていたオマエは、俺の声にはっと振り向く。
「ケイちゃん! ちょうどいいところに!」
「……? なんだよ?」
「お願い、ハルちゃんが下りるのを手伝って」
オマエがそう言ったときだった。木の葉がざわつき、枝の隙間から黒い影が降ってくる。影はそのまま地面に落ち、ドンッと派手な音を立てた。
「いってぇ……」
影の正体——臀部をさすりながら起き上がったのは、俺の弟のハルトだった。
「ハルちゃん……!?」
「おい、大丈夫か!?」
俺たちは慌ててハルトの元に駆け寄った。だが、幸いなことにハルトは無傷のようだった。地面に叩き付けられる前に、咄嗟に受け身を取ったことが幸いしたようだ。
「オマエ、なんで木なんかに登ってたんだ?」
俺は呆れながら尋ねた。ハルトはしかめ面をするばかりで、俺の質問には答えない。すると、オマエが横から俺の袖を引いた。
「ハルちゃんは木の実を取ろうとしてくれたの」
「木の実?」
「うん。私が、お腹空いたなんて言ったから……」
オマエはしゅんと項垂れた。ハルトは決まりが悪そうに視線を逸らす。いいとこあるじゃねぇか——俺は秘かにそう思った。ハルトは不器用な奴で、他人に誤解されやすい。けれど、今日の様子を見る限り、オマエとは仲良くやれているようだ。俺はハルトに何か言おうと思ったが、上手く言葉にならなかった。不器用なのは、俺も同じだった。
俺とハルトはよく似ているが、実は半分しか血の繋がりがない。正確には異父兄弟で、ハルトは俺の母親が他所の男との間に作った子だ。
そんな事情があって、最初は俺もチカゲも、ハルトのことを良く思っていなかった。しかしあるとき、母親とハルトの父親が揃って行方を眩ませてしまった。ひとり置き去りにされ、暗い顔で蹲(うずくま)るハルトを見て、俺とチカゲは話し合った。なんとかハルトを助けてやれないかという相談だ。
「うちで引き取っても、あの乱暴親父の餌食になるだけだ」
チカゲは苦々しい顔で言った。チカゲと意見が合うことなど滅多にないが、そのときばかりは俺も即座に頷いた。夜、親父が寝た隙を突いて、俺とチカゲは家を出た。そして、その足でハルトを迎えに行き、三人で村を出た。子供だけの旅だ。しかも、ろくに準備もしてきていない。何日も飲まず食わずの上、幾度となく危険な目に遭いながら、山を越え、河川を越え——やがて、知らない街に辿り着いた。教会の孤児院を見つけたときは、三人で顔を見合わせ、思わず肩を抱き合った。これで助かると思ったからだ。
きっと良い神父様が助けてくれる。神様は俺たちを見捨てなかったんだ——幼かった俺たちは、そう信じて疑わなかった。テンマも、シアンも、アイルも、そしてオマエも、きっと同じだったに違いない。
けれど、その希望は無残にも打ち砕かれてしまった。俺たちは食事も満足に与えられず、教会の地下で労働をさせられ、オマエは孤児院で下働きのようなことをさせられた。おかげで、俺たちはいつも疲労と、そして痛いほどの空腹と戦わなければならなかった。
「木の実なんてやめとけ。変なもん食ったら、腹壊すかもしれねぇ。……ほら、これやるから、我慢しろ」
俺は持ってきたリンゴを、オマエとハルトの間に置いた。ふたりがはっと目を見開く。よほど腹が空いていたのだろう。しばしの間、ふたりはリンゴに釘付けになった。
「でも、このリンゴ、どうしたの?」
オマエは俺を見て小首を傾げた。
「オマエの気にすることじゃねぇ」
「でも……」
「聞こえなかったのか? オマエの気にすることじゃねぇっつったんだ」
俺は語気を強めて言った。オマエがびくりと肩を揺らす。俺は思わず目を逸らすと、小さく舌打ちした。——神父の目を盗んで台所からくすねてきたなんて、言えるわけがない。
「台所からナイフを借りてきたから、切り分けてやる。縦に半分でいいな?」
「え? ケイちゃんの分は?」
「俺はいい」
「そんなのだめだよ。ケイちゃんだってお腹空いてるでしょ? みんなで分けようよ」
オマエはじっと俺を見つめた。……なぜだろう。大抵のことは容易く跳ね返せるのに、その青い瞳からはどうしても逃れられない。俺は返事の代わりに小さく溜息をつくと、リンゴを三等分して、二切れをオマエとハルトの手に渡した。そして、残りの一切れを自分の口に放り込む。美味かった。腹が減っているときは、何を食べても美味いと感じる。けれど、このしなびたリンゴをご馳走のように美味いと感じるのは、こうして三人で食べているからだろう。俺は風にそよぐ木を見上げながら、こんな平和な時間がずっと続けばいいと、心の底から願った。
と、——そのとき。
「おい、ハルト! ちょっと来い!」
孤児院のほうから神父の怒鳴り声がする。ハルトは慌ててリンゴを呑み込むと、土埃(つちぼこり)と共に立ち上がった。
「ハルちゃん……」
オマエが心配そうにハルトを見上げる。
「昨日、オレだけ仕事が終わらなかったからな。……多分、説教されるんだろ」
ハルトはそう言うと、きびすを返した。俺はハルトを引き止めようとしたが、孤児院の窓から他の大人が見ていることに気付き、伸ばした手を引っ込める。遠ざかっていくハルトの背中を見送りながら、俺は握り締めた拳を木の幹に打ちつけた。
「クソッ! あの神父、ブッ殺してやる……!」
「ケ、ケイちゃん、落ち着いて……神父さまに聞かれたら殴られるよ」
「構うもんか。殴られたら、殴り返してやる!」
「だめだよ、ケイちゃんも怪我しちゃうよ。私も我慢するから、ケイちゃんも我慢しよう?」
オマエはそう言うと、俺の拳を両手で包み込んだ。小さな両手で懸命に俺を抑え、不安そうに眉を寄せる。オマエにそこまでされては、引き下がるしかない。俺は深い溜息をつくと共に、手に込めていた力を抜いた。オマエが安堵の笑みを浮かべ、そっと手を離す。
「ねえ、ケイちゃん。ハルちゃんが戻ってくるまで、何か楽しいことを考えようよ」
「なんだよ、楽しいことって」
「うーん……あ、そうだ!」
オマエは思い付いたように言った。
「あのね、今度みんなで『オズごっこ』しない?」
「オズごっこ……?」
初めて聞く言葉に、俺は怪訝な顔をした。オマエは構わず話を続ける。
「オズの魔法使いっていう物語、知ってる?」
「あー、あれか? ブリキとかカカシとか出てくるやつ。あとなんだっけ……臆病なライオン?」
「うん。大魔法使いのオズに願いを叶えてもらうために、みんなでエメラルドシティを目指すの。ね、楽しそうじゃない? だからケイちゃんも一緒に『オズごっこ』をしようよ」
「なんでそんなことしなきゃなんねぇんだよ……」
俺はあからさまに面倒臭そうな声で言った。もっとはっきり断ることもできたけれど、それだとオマエが傷付くだろうと思ったのだ。つまり、オマエに俺の気持ちを察してほしかったのだが……こういうときのオマエは、鈍感だった。何かを探すように辺りを見回すと、地面に落ちていた細い木の枝に手を伸ばし、嬉々として俺の顔を見る。
「オズの魔法使いそのままじゃつまらないでしょ? だからね、こういう『セカイ』にしようと思うの」
オマエはそう言うと、木の枝で地面に地図のようなものを描き始めた。「ここには村があって、それからこっちにはお城が……」などと言いながら、次々と絵を描いていく。いかにも子供らしい拙い絵だったけれど、しっかりした線からはオマエの熱意が見て取れた。そして——ほとんど地図を描き上げたとき、オマエはぽつりと言った。
「それでね、この『セカイ』には大人はいないの」
「え……?」
「私たちに意地悪をしたり、無理に働かせたりする人はいないの。みんな自由に生きていて、でも困ったときはお互いに助けあって……そうやって、毎日幸せに暮らすの。みんな、いつまでも笑顔でいるの。誰も悲しまない、傷付いたりしない。ここは、そういうセカイ——『オズのセカイ』なんだ」
オマエはそう言うと、木の枝を置いた。口元に浮かべた微笑とは裏腹に、土に描かれた地図を見る瞳は、切なくやりきれない色を宿している。その瞳を見たとき、俺はオマエがなぜ『オズごっこ』をしようなどと言い出したのかを理解した。
「だったら、この『セカイ』の入口には『扉』を作ろうぜ」
俺は手を伸ばし、オマエが置いた木の枝を掴んだ。オマエがぱちくりとまばたきをする横で、俺は地面に絵を描いていく。
「放っておいたら、悪い人間たちが勝手に入ってくるかもしれねぇだろ? だから、『扉』を作るんだ。『鍵』がいっぱい付いた頑丈な『扉』を——」
俺はそう言うと、木の枝を置いた。足元には、拙い『扉』と『鍵』の絵がある。
「でさ、その『扉』を開けられるのは、俺たちだけなんだ」
俺の言葉に、オマエは少し目を見開いた。それから、その青い瞳をきらきらと輝かせ、見たこともないほど眩しい笑顔で「うん!」と大きく頷いた。
——オマエが神父に呼び出されたのは、それから数日後のことだった。
なんでも、オマエは掃除の最中に、誤って壺を落としてしまったらしい。更に悪いことに、神父がその割れた破片を踏んで足を怪我してしまった。オマエは必死に謝ったが、それでも神父はオマエを許さず……オマエの胸倉を掴み上げると、頬を平手で打った。
「っ……何してんだよ!!」
廊下を通りかかった俺は、考えるより先に神父に向かって走り出した。オマエを掴む神父の腕に噛み付き、どうにかオマエを神父から引き剥がす。
「おい、大丈夫か……?」
床に倒れ込んだオマエを、俺は慌てて抱き起こした。オマエがゆっくりと顔を上げる。頬は張れ、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。唇の端に滲んでいる赤いもの——それが血だと気付いた瞬間、俺の中で何かが音を立てて切れた。
「ンの野郎、ブッ殺してやる……!!」
「だめだよ、ケイちゃん!」
「っるせえ、離せ……!!」
俺は縋り付いてくるオマエを振り払うと、再び神父に突進していった。バランスを崩した神父の上に馬乗りになると、拳にぐっと力を込める。今までどんな乱暴を働いても、人を殴ったことだけはなかった。それをしてしまったら、親父と同じだ。きっと、もう後戻りできなくなる——自分でも薄々わかっていたから、意識して拳を押さえ込んできた。けれど、もうそんなことは頭から消え去っていた。自分でも驚くくらい自然に手が出て、——気が付くと、神父の顔は赤く腫れ上がっていた。
それから数日間、俺は仕置き部屋に放り込まれ、食事も与えられずに過ごした。部屋を出される頃にはすっかりふらふらになっていたけれど、それでも俺は自分のしたことを後悔してはいなかった。なぜなら、オマエを神父から守ることができたのだから。
それ以来、俺はこう考えるようになった。「暴力は正しいことだ。大切な人を守るためには必要なことなんだ」と。その考えの下、俺は暴力を奮い続けた。人を殴るたびに、自分の胸が痛むことには気付かないふりをして。来る日も来る日も、俺は力を使い続けた——。
オマエが俺を呼び止めたのは、ある晴れた日のことだった。
その日も、俺は神父を殴った。オマエが神父に手酷い仕打ちを受けているのを見てしまったからだ。俺はじんと痺れる拳を握り締め、苛立った足取りで教会の裏手を歩いた。——そのとき。
「ケイちゃん!」
オマエが後ろからぱたぱたと走り寄って来る。俺は苦虫を噛み潰したような顔になった。ただでさえ不器用な性格なのに、今は人を殴ったあとで気が立っている。オマエに優しくする余裕など、あるはずがなかった。
「……ンだよ。しようもねぇ用事だったら、テメェのことも殴るぞ」
俺は心にもないことを言った。そんなふうに言えば、オマエが引いてくれるだろうと思ったのだ。
けれど、オマエは引かなかった。それどころか、俺の目の前で立ち止まる。
「ケイちゃん、話があるの」
「……俺は話なんかねぇよ」
俺は冷たく言うと、その場を立ち去ろうとした。けれど、オマエは俺の腕を掴んで引き止める。
「っ……離せ……!」
「ちゃんと話を聞いて」
オマエは真剣な顔で言った。オマエの青い瞳に捕まり、俺はまた動けなくなってしまう。オマエとリンゴを分け合った、あのときのように。
「ケイちゃん、また神父さまを殴ったの?」
「……別に、殴ってねぇ」
「うそ」
「あぁ? なんでオマエにそんなことが言えんだよ。見てねぇだろうが」
「だって……人を殴ったあとのケイちゃんは、すごく辛そうな顔をしてるもの」
「…………っ」
胸を衝かれたようで、俺は少し動揺した。そんな顔はしていない、辛くなどない——そう言い返そうとしたけれど、それはできなかった。人を殴るとき、胸が痛むことを……とても嫌な気持ちがすることを、俺はとっくに自覚していた。
「仕方ねぇだろ。こうするしか方法がねぇんだ。オマエを守るためには……」
俺はオマエから目を逸らし、声を震わせながら言った。そのとき、ふと気が付く。俺はまたいいわけをしている……。頼れる者のいない環境では、虚勢を張って生きるしかない。かつて俺は、自分自身にそういいわけをした。そして、今また同じことを繰り返そうとしている。暴力を奮ってしまうのはオマエのためだ、仕方のないことなのだと、自分を正当化しようとしている。悔しくて、恥ずかしくて、俺は膝の横で拳を固く握りしめた。
すると——その手に、オマエの細い指先がそっと触れる。
「知ってるよ、ケイちゃんが私を守ってくれてること。いつもありがとう」
「オマエ……」
「でも、私、ケイちゃんに傷付いてほしくない。ケイちゃんが私を守ってくれるように、私もケイちゃんのことを守りたい。ケイちゃんの心を守りたい。だから、今日はケイちゃんと話をしようと思ったの」
オマエはそう言うと、真っ直ぐに俺の目を見つめた。どこまでも深い青は、海の色に似ていた。全てを優しく包み込む、あの海の色に。
「暴力では何も解決しない。自分が傷付くだけだよ。だから、もう暴力はやめて。人を殴ったりしないで。辛い顔をするのは、今日で終わりにしようよ」
オマエはにっこりと微笑んだ。俺なんかにはもったいないくらいの、可憐で優しい笑顔だった。俺は懸命に言葉を探したけれど、鼓動が速くて何も言うことはできなかった。それでも返事をしなければと、オマエに向かってこくりと頷く。オマエは静かに頷き返すと、ふと思い付いたような顔をしてポケットの中を探った。
「今、こんなものしかないけど……」
そう言って取り出したのは、細い針金だった。オマエはそれで小さな輪を作ると、俺の右手を少し持ち上げ、小指にさきほどの輪をはめる。
「約束のしるし。もし、人に手を上げそうになったら、この針金の指輪を見て思い出して」
オマエはそう言うと、また俺の目を見つめた。今まで、俺はオマエの目を見るのがどこか怖かった。けれど、今はもう何も怖くない。オマエの青い瞳を、海のようなその色を、俺はどこまでも真っ直ぐに見つめ返す。
「ああ、わかった。必ずこの指輪を見る。どんなときも、もう暴力を奮ったりしない」
「うん……!」
「それから、その……」
俺は一瞬、口ごもった。——けれど、言わなければならない。この言葉だけは、ちゃんとオマエに伝えなくてはならない。俺は意を決して、再び口を開く。
「ありがとう、な……」
俺がそう言うと、オマエはまた花が咲いたような微笑を見せた。そんな顔を見ているのが照れくさくて、俺は思わずオマエを抱き寄せてしまった。
オマエとオズごっこをするときは、ライオンの役を選ぼう——。
アナタを抱き締めながら、ケイサはそう決心しました。
なぜなら、ケイサはアナタと針金の指輪に誓ったからです。
もう暴力は奮わないと。人に手を上げたりしない、と。
力ではない、本当の強さが——自分の弱さも、犯した過ちも認めて、それに立ち向かう『勇気』が欲しい。
だから、俺はライオンの役を選ぼう——ケイサはそう思ったのでした。
けれどもその想いは、やがて来る『別れ』によって、少しずつ忘れ去られていくのですが——それはまた、別のお話。
おしまい
——ある日のこと、ケイサは山道を歩いていました。夕焼けがとても綺麗でしたが、ケイサの心は反対にささくれだっていました。一体、なぜなのでしょうか……?
俺は苛々した足取りで山道を下りた。というのも、さきほどまでチカゲと喧嘩をしていたからだ。
オズのセカイの東の山には、弟のハルトがいる。木こりの仕事をするときだけ、山小屋に滞在しているのだ。その近くで、人食い大蜘蛛が出たという噂を聞き、俺はハルトに危険を報せに行ったのだが、——不運なことに、その途中でチカゲに遭遇してしまった。なんでも、チカゲも大蜘蛛の噂を聞き、ハルトのことが心配になったのだと言う。
チカゲは俺の双子の兄弟なのだが、容姿も、性格も、考え方も、何もかも違いすぎて全く反りが合わない。顔を合わせると喧嘩になるので、俺たちは敢えて距離を取っていた。だが、鉢合わせてしまった以上は仕方がない。俺たちは渋々、ふたりでハルトの山小屋を訪れた。
しかし、俺たちはハルトにそっけなく追い返されてしまった。秘密兵器だとかエサがどうとか言っていたが、あれはなんのことだったのだろうか……?
ともかく、俺とチカゲはまた山を下りることにした。道中、チカゲは俺に、文句を垂れた。ハルトに追い返されたのは、俺のせいだと言うのだ。なんでもそつなくこなし、口も達者なチカゲに比べて、俺は不器用で、何かあると口よりも先に手が出てしまう。だからオマエはハルトに煙たがられているのだ、というのがチカゲの言い分だった。
「オマエなんか、兄貴だとも思われてねぇよ!」
チカゲにそう言われ、俺は思わず拳を振り上げた。ところが、チカゲは逃げ足だけは速く、俺を振り切って先に山を下りていった。残された俺は、その辺に生えていた木に当たり散らしながら、今ようやく麓(ふもと)まで戻ってきたのだった。
「——あれ? ケイくん?」
不意に後ろから声を掛けられ、俺はうつむけていた顔を上げた。振り向くと、田舎道の向こうから見知った顔の男が歩いてくる。——幼馴染みのシアンだ。ハルトより一つ年下で、今は村外れの墓地で墓守をしている。
「チッ、なんでこんなとこにいんだよ……」
苛々していた俺は、つい素っ気ない態度を取った。けれど、シアンはあまり気にしていない様子で、にこにこと笑顔を浮かべながら近付いてくる。
「ひさしぶりだね〜。今から村へ帰るところ? だったら一緒に帰ろうよ」
シアンはそう言うと、俺の返事を待たずに歩き出した。断るタイミングを逃してしまった俺は、ズボンのポケットに手を突っ込み、シアンの少し後ろを付いていく。
「夕陽が綺麗だな〜。ちょっと山のほうまで見に行こうかな」
シアンは上機嫌で言った。鼻歌でも歌い出しそうな勢いだ。
「山……? やめとけ。今は大蜘蛛が出るって噂だ」
「えっ? じゃあ、ハルくんも危ないんじゃない? 山小屋にいるはずだよね?」
「ハルトには、もう報せてきた。……チカゲの野郎と一緒にな」
「そっか。ハルくんにも、しばらく会ってないなぁ。元気だった?」
「まあな。……っつーかオマエ、なんでそんな大荷物なんだよ?」
俺はシアンが抱えている荷物を見た。大きな麻袋の中には、青い匂いのする草がいっぱいに詰め込まれている。
「ああ、これ? 薬草だよ。煎じ詰めるといい薬になるって聞いたんだ。あとで兄さんに届けようと思って」
兄さん、というのはシアンの実の兄・テンマのことだ。今は『人間の村』で門番をしているのだが、どうも具合が悪いらしく、シアンは度々テンマの見舞いに行っていた。俺がテンマの容態を尋ねると、シアンはぱっと顔を輝かせた。最近はずいぶん顔色が良くなったこと。この前、気晴らしにふたりで湖まで散歩をしたこと——。見るからにうれしそうな様子で、シアンは兄のことを語った。
「……オマエらって、ホント仲いいよな」
俺はぽつりと言った。シアンが不思議そうに首を傾げる。
「仲いいよなって、おれと兄さんがってこと?」
「それ以外に何があんだよ。オマエらを見てると、つくづく思うぜ。俺のところとは全然違う、って……。俺とハルトなんか、一緒にいてもほとんど話さねぇからな」
俺は歩きながら、小石を蹴飛ばした。シアンは相変わらず不思議そうな顔をしていたが、俺自身も自分の気持ちを説明することができなかった。
俺たちには親がおらず、身内と言える者はチカゲとハルトしかいない。チカゲはウマが合わないが、弟のハルトのことは自分なりに大切に思っている。けれど、俺はチカゲのように、自分の感情を素直に口に出すことができない。弟の前であっても、やっぱり虚勢を張ってしまう。俺は、またチカゲに言われたことを思い出した。オマエなんか、兄貴だとも思われてねぇよ——確かに、そうかもしれない。ハルトはこんな兄を持って迷惑しているだろう。短気で、喧嘩っぱやくて、ギャングなんかに所属している兄など……。悔しいけれど、今回ばかりはチカゲの言葉を認めざるを得ない。
そう思い、内心で溜息を吐いたときだった。
「うーん……なんかよくわかんないけど、ハルくんはケイくんのこと、好きだと思うよ?」
シアンは顎に人差し指を当てて言った。思いがけない言葉に、俺は「は?」と素っ頓狂な声で聞き返す。
「ケイくんって、強くて格好良いしさ。ケイくんが兄さんだったら、おれ自慢しちゃうな。口に出して言わないだけで、ハルくんだってケイくんのこと、好きだと思うよ」
「……っ、オマエ……」
「ん? どうかした?」
「……なんでもねぇ」
俺はそのまま黙り込んだ。シアンが不思議そうに小首を傾げる。オマエ、いい奴だな——俺はそう言おうとしたけれど、気恥ずかしくて、結局言葉にはならなかった。
ケイくんって、強くて格好良いしさ——ケイサは、シアンに言われた言葉を思い返しました。
でも、本当にそうなのでしょうか?
気に入らないことがあると、すぐに手を出してしまう。人と話すのが苦手で、弟とさえまともに話せない……そんな自分は、本当に『強い』と言えるのでしょうか?
ケイサは自分の胸に問いかけながら、再び村へと続く道を歩き始めました。
おしまい
何が狙いかは知らねぇが、俺を騙したことに変わりはねぇ。
死ぬほど後悔させてやるよ。
女のオマエにしかわかんねぇ方法で、な……。
抵抗すんじゃねぇ、大人しくしろ!
——あぁ? なんだ、その目……。
あんまり俺を苛つかせるなよ? 喧嘩の後で、ただでさえ気が立ってんだ。
喧嘩は好きでやってんだ。人に手ェ出すのも、気に食わねぇ奴がいるから殴ってるだけだ。
全部、俺の意志でやってんだよ!
テメェ、いい加減にしねぇと……本気でやっちまうぞ?
は……熱くなってきた。イイんだろ? なあ……。
……違う? だったら……コレはなんだよ?
もっとシてほしいって……そう思ってる証拠じゃねぇのか?
は……女ってのは卑怯な上に頑固だな。なら……こっちは? んっ……
どうだ? 堪んねぇだろ? ほら……。
ククッ……だらしねぇ顔してんじゃねぇよ。……もう限界か?
認めろよ。……ほら、もう溶けそうになってんじゃねぇか。
ハッ、誰がやめるか。人間の女が、この俺をハメようとしたんだ。
こんなもんじゃ許さねぇ。……ぶっ壊れるまでヤってやるよ。
昔々、あるところに孤児院がありました。そこでは、ひとりの少女と六人の兄弟が暮らしていました。少女は、そう——アナタです。
アナタたちは様々な事情から、この孤児院に引き取られました。身寄りのないアナタたちは、屋根のある家で暮らせることをとても喜びました。けれども、そこは決して楽しい場所ではありませんでした。孤児院の主(あるじ)である神父が、アナタたちに酷い仕打ちをしてきたのです。いつかここから抜け出そう。ここではない、どこか新しい『セカイ』で、みんなと幸せに暮らそう——アナタと六人の兄弟たちはそんなふうに話しながら、日々を懸命に生きていました。
これは、そんな頃のお話——。
今日は珍しく休みが貰えたが、俺は特にうれしいとも思わなかった。時間があったところで、何もすることがないからだ。端的に言えば『退屈』ということだろう。
そんなとき、俺は教会の庭を散歩することにしていた。「教会の庭」というと、何やら美しい響きがあるけれど、ここはそんないいところではない。地面には枯れ葉が舞い、花壇はブロックが崩れ、雑草が伸びるままになっている。そんな場所だから、見ても面白いわけではないし、どちらかというと荒んだ気持ちになる。それでも俺が教会の庭へ通うのには、ある理由があった。
「——やっぱり」
庭に出た俺は、ぽつりと呟いた。俺の視線の先では、キミが座り込んで花を摘んでいる。この時間に庭に出ると、こうしてキミと会う確率が高い。もちろん、俺たちは同じ家——というか、孤児院で暮らしているのだから、それ以外の時間も顔を合わせることはある。けれど、なかなかふたりきりというわけにはいかない。だから俺は、特に面白いものがあるわけでもない庭に足を運ぶのだった。
穏やかな風に、キミの銀色の髪がなびく。きらきらと眩しい光景に目を細めながら、俺は抜き足差し足でキミのほうへと近付いていった。キミはまだ振り向かない。花を摘むのに夢中になっているようだ。俺は微かな嫉妬を覚えつつ、キミの後ろからそっと両手を伸ばす。
「だーれだ?」
俺はキミの両眼を手で塞ぐとそう言った。キミは「わっ」と小さく声を上げ、持っていた花を取り落とす。誰が植えたわけでもなく自生している、青いスミレの花だ。
「だ、誰? わからない……」
キミはすっかり狼狽した様子だった。俺はくすりと笑って、キミの耳元に唇を寄せる。
「——俺だよ」
「その声……チーちゃん?」
「当たり」
俺はキミの目から、そっと両手を外した。キミがぱっと振り返り、こぼれ落ちそうな大きな瞳で俺の姿を捉える。そして、ぷっと頬を膨らませると——、
「もう、いきなり目隠しなんかされたら、びっくりするじゃない」
と抗議した。怒っているつもりなのだろうが、俺にとってはそんな顔さえも可愛らしくて仕方がない。
「花、摘んでたのか?」
「うん。部屋に飾っておこうと思って。私、花が好きなの」
キミはそう言うと、さっき落としたスミレの花を拾い上げた。花が好きだなんて女の子らしいなと、俺は内心微笑ましい気持ちになる。
キミはこの孤児院で暮らす子供たちの中で、唯一の女の子だった。年の割にしっかりしており、いつも真面目で一生懸命——。そんなキミをからかうのは、ちょっと楽しい。キミとこうして過ごしているときだけは、退屈さを忘れていられる。胸に巣くう虚無感を、生きることへの失望を、このひとときだけは忘れていられるのだ。
「あ、土が付いてる」
俺はキミの顔を見て言った。花を摘んでいるときに付いたのかもしれない。
「えっ、ホント? どこ?」
俺に言われ、キミは慌てて頬を拭った。けれど、キミの手が触れたのはまるで見当違いな場所だった。俺は苦笑を浮かべながら、キミにそっと顔を近付けていく。
「そっちじゃない、こっち」
俺はそう囁くと、キミの頬に軽く唇を当てた。その瞬間、キミの白い肌には鮮やかな緋色が差した。
その翌日。俺はいつものように神父に命じられ、教会の地下で働かされた。弟のハルトや、他の子供たちも一緒だ。みんな、神父を恨みながら額に汗して働いた。もちろん、俺も神父のことは心底嫌いだし、できるものなら消してやりたいと思う。俺たちを虐げる大人を——汚い『人間』たちを、この世から一掃してやりたい。
けれど、現実にはそんなことはできなかった。俺たちはあまりにも非力で、ここを出ては生きていく術がない。俺はふとキミのことを思い浮かべた。女のキミは教会の地下ではなく、孤児院の中で下働きのようなことをさせられていた。冷たい水で洗濯をしているせいだろう。昨日、花を摘んでいたキミの手には、あかぎれができていた。
せめてキミだけでも、ここから逃してあげることができればいいのに……そう思い、いくつか方法を考えてはみるものの、どれもあまり現実的ではない。結局、今の俺たちは大人のいいなりになり、搾取されて生きるしか道がないのだった。
夜、俺はランタンを手に孤児院の廊下を歩いていた。体は疲れていたけれど、俺には少しやりたいことがあった。やりたいというか、半ば惰性で続けているだけなのだが……。ともかく、部屋だとみんなの邪魔になってしまうし、神父に見付かると面倒なことになりかねない。そこで俺は、もっぱら孤児院の屋根裏を使っていて、今夜もまたそこへ向かおうとしていた。
「……ケイサ?」
俺は足を止め、ランタンを前に翳した。薄明かりの中に、壁にもたれかかるようにして座り込んでいる少年の姿が浮かび上がる。俺の双子の兄弟、ケイサだ。双子といっても、見た目から性格まで何もかも違いすぎて、ケイサとは正直そりが合わない。口を開けば喧嘩になるので、あまり話もしないようにしていたのだが、今日は思わず声を掛けてしまった。なぜなら、ケイサの頬が赤く腫れ上がり、唇の端に血が滲んでいたからだ。
「どうしたんだよ? その顔……」
「っるせえ……なんでもねぇよ」
ケイサがうつむいたまま、暗い声で答えた。相変わらず愛想の欠片もねぇな——心の中で毒突きながらも、俺は一応聞いてみることにする。
「もしかして、また神父とやりあったのか?」
「…………」
「オマエも懲りねぇな。いくらオマエが強いって言っても、大人の力に勝てるわけがない。
そりゃ俺だって、神父の奴はムカツクけどさ……でも、抗ったってどうしようもねぇじゃん。やるだけ無駄だろ」
「テメェはそういう奴だよな。いっつもやる気がなくて、ガキのくせに『悟ってます』って顔してよ」
「……何が言いてぇんだ」
俺は苛立ちを含んだ声で言った。ケイサが小さく舌打ちして、ぷいっと顔を背ける。これ以上言い合うと、また喧嘩になるということをケイサもわかっているのだ。俺も、もう取り合う気はなく、黙ってケイサの前を通り過ぎた。
階段を上りきると、孤児院の屋根裏に辿り着く。そこは物置として使われており、掃除もされていないため埃っぽかった。
俺は梁のところにランタンを吊すと、床に腰を下ろした。そして、ポケットからおもむろにあるものを取り出す。古びたトランプ——この物置に捨て置かれていたものだ。俺は器用な手つきでカードの束を繰ると、一度それらを懐に仕舞った。そして、右腕を真っ直ぐ前に伸ばし、手をさっと上下に揺する。すると、どうだろうか。何も持っていないはずの手から、トランプが落ちてくる。一枚、二枚——手を振るごとにトランプが現れ、床に舞っていく。
俺がしているのは——そう、マジックだ。
誰に見せるわけでもなく、ただ無聊(ぶりょう)を慰めるためだけに、俺はこうしてマジックをしていた。マジックは頭を使うし、技術もいる。だから、始めたばかりの頃はそこそこ楽しかった。けれど、最近はそれもつまらなくなってきた。どんなマジックでもすぐにできてしまう。練習も、努力も必要ない。まるで手応えのない行為に、だんだんと嫌気が差してくる。
マジックだけではない。俺にとっては、どんなことでもそうだ。
簡単にできてしまうからつまらない。熱心になれない。俺の才能や器用さを指して「羨ましい」という人もいるけれど、俺には全く理解できない。拭いようのない虚無感を抱え、色のない世界を死んだように生きる。そんな人生の何が楽しくて、何が羨ましいというのだろう。
ふと、ケイサに言われた言葉が脳裏に蘇る。テメェはそういう奴だよな。いっつもやる気がなくて、ガキのくせに『悟ってます』って顔してよ——ケイサは、そう言っていた。
俺だって悟りたいわけじゃない。でも、悟らざるをえないじゃないか。だってどうしようもないんだ。いくら考えても、この虚しさから抜け出す方法がわからない。退屈な時間が延々と続いていくだけなんだ。これまでも、これからも。
なあ、誰か教えてくれよ。そんな人生に何か意味はあるのか? 俺は、どうして生きているんだ……?
「……もうやめるか」
俺は力なく腕を下げた。トランプを片付けなければいけないのだけれど、俺はなぜかもう指一本動かせなかった。絶望にも似た虚しさに全身を支配され、淡いランタンの光をぼんやり見つめるのが精一杯だった。
と、——そのとき。
「……誰だ?」
トントンと階段を上ってくる足音が聞こえ、俺は鋭い声で問いかけた。
「チーちゃん? どうしてこんなところにいるの?」
顔を覗かせたのは、キミだった。意外だったけれど、訪問者がキミだとわかって俺は警戒を解く。
「何してたの? それ、トランプ?」
「……別に、なんでもない」
俺は自分でも驚くほど素っ気ない声で言うと、手早くトランプを集めた。
「キミこそ、どうしたんだよ? こんな夜中に、屋根裏なんかに来たりして」
「その……屋根裏にねずみがいるみたいだから、見てこいって言われて……」
言われた、というのは神父にだろう。俺が立てた物音を、ねずみが走る音と勘違いしたのかもしれない。俺は溜息を吐きつつ、集めたトランプをポケットに仕舞い込む。
「大丈夫。ここにはねずみはいないよ。だからもう部屋に戻りな」
「うん……」
「……? どうした、まだ何かあるのか?」
「ねえ、チーちゃん。何か悩んでるの?」
キミはそう言いながら、青い瞳でじっと俺の顔を覗き込んだ。思いがけない言葉に、俺は思わずどきりとする。
「……なんでそんなふうに思うんだよ?」
「だって、なんだか辛そうな顔してるから……」
「辛そうって……俺が?」
「うん……。だから何か悩んでるのかなって」
キミの言葉に、俺はそっと視線を逸らした。キミはまだあどけないけれど、時々とても鋭いことを言う。キミからは逃れられないことは薄々わかっていたけれど、俺はそれでも抗ってみることにした。なぜなら、今キミが触れようとしているのは、俺が最も触れられたくない部分だったからだ。
「悩んでなんかないよ。気のせいじゃない?」
「本当に……?」
「…………」
「チーちゃん、私じゃ頼りないかもしれないけど、何か悩んでるなら——」
「だから、悩んでねぇって言ってるだろ! それに……悩んでたとしても、きっとキミにはわからない」
「チーちゃん……」
「キミだけじゃない。 誰にもわからない。ハルにも、ケイサにも、他のみんなにも……言うだけ無駄なんだよ。それに、言ったってどうにもならない!」
「そんなの、言ってみないとわからないじゃない……」
「っ……しつこいな! なんでそこまで俺に構うんだよ!?」
俺は思わず大きな声を出した。キミがはっと目を見開き、すまなそうに二、三歩下がる。俺はしまったと思ったけれど、すぐに謝ることができなかった。普段は偉そうに大人ぶっているけれど、本当の俺は、ただの意地っ張りな子供だった。
結局、俺はキミとランタンを残して、ひとり屋根裏を後にした。
——それからしばらくの間、俺はキミのことを避けた。けれど、心の中では激しく後悔していた。いくら触れられたくない話題だったとはいえ、キミを怒鳴り付けてしまったのは八つ当たり以外の何者でもない。いい加減、情けなくなってきて、俺はキミに謝ろうと外に出た。
教会の庭に向かうと、そこには案の定、キミがいた。この間と同じように、地面に蹲ってスミレの花を摘んでいる——と思ったのだが、今日はなんだか様子が違った。キミは自分の両手を見つめ、ひどくがっかりした顔をしている。
「……どうしたの?」
俺はキミに近付いていくと、恐る恐る声を掛けた。キミがぱっと振り返り、少し驚いた顔をする。拒絶されるかなと思ったけれど、キミは哀しげな微笑と共に返事をしてくれた。
「これ、壊れちゃったの……」
そう言って、キミは視線を自分の手に戻した。キミの小さな手には、壊れた髪留めがある。キミがいつも髪に飾っていたものだ。
「留め具が古くなってたみたいで……」
キミはどこか泣きそうな声で言った。よほどお気に入りだったのだろう。新しいものを買えればいいのだけれど、神父が俺たちに金など与えてくれるわけがない。俺はしばらく考えてから、ある決心をした。キミの前に屈み込むと、顔を上げたキミと目を合わせる。
「チーちゃん……?」
「そのままじっとしてろ」
「どうして?」
「いいから。——じゃあ、行くよ」
そう言うと、俺はパチンと指を鳴らした。その途端、キミの髪にスミレの花が咲く。右にも、左にも。前髪にも、後ろ髪にも。銀糸のようなキミの髪に、スミレの青い花はよく映えた。
「えっ? こ、これ、どうなってるの? すごい……!」
キミは自分の髪に触れながら歓声を上げた。
「マジックだよ」
「マジック? チーちゃん、手品ができるの?」
「まあね。キミ、花が好きだって言ってだろ? 本当は髪留めを直してあげられたらいいんだけど……ごめん」
「ううん、すごくうれしい。ありがとう、チーちゃん」
キミはにっこりと笑った。それこそ花が咲いたかのような笑顔だ。俺は自分の頬が熱くなるのを感じて、キミに気付かれないようそっと目を伏せる。
「その……この間は、ごめん」
「この間……?」
「ほら、屋根裏でキミに怒鳴っちまっただろ? 俺の悩みが、キミにわかるはずないって……」
俺は洗いざらい自分の苦悩を打ち明けた。わかってもらえるかどうかはともかく、キミには話さないといけないと思ったのだ。キミは真剣な顔で俺の話を聞き、最後に少し戸惑いの色を見せた。どう返事をしていいかわからない……そんな様子だった。
「まあ、そんなわけだから、もうマジックもやめちまおうかなって……。こんなくだらないこと、いくら続けても意味ないしな……」
「くだらなくなんかないよ!」
キミははっきりした声で言った。キミの勢いに押されて、俺は思わずぽかんとしてしまう。キミははっとして、慌てて口元を押さえた。
「……ご、ごめんね。でも、本当の気持ちなの」
「本当の……」
「私にはチーちゃんの悩みを全部理解することはできないと思う。私、ドジばかりだから、なんでもできるチーちゃんのこと、素直に羨ましいって思うよ」
「……」
「それに、チーちゃんのマジックもすごいと思う。だってそうでしょう? 私、さっきまで髪飾りが壊れちゃってとっても悲しい気持ちだったのに、そんなの一瞬で吹き飛んじゃった。チーちゃんのマジックは人を笑顔にできるんだよ」
「……キミ……」
「チーちゃんがマジックをやめたいのなら、仕方ないと思う。でも、私は好き。人を笑顔にできるチーちゃんのマジックも、チーちゃんも好きだよ」
キミは一生懸命に言った。そんなキミを見ていると、俺はとても微笑ましい気持ちになった。不思議なものだ。あれだけ意固地になっていたのに、キミの言葉は素直に受け入れられる。キミが喜んでくれるのなら、キミが笑顔でいてくれるのなら、マジックを続けてみてもいいかな、なんて思ってしまう。多分それは、俺がキミに特別な感情を抱いているからだろう。
俺はそっと両腕を伸ばすと、キミの小さな体を自分の胸元に引き寄せた。ぎゅっと力を込めると、キミが小さく声を漏らす。
「チ、チーちゃん……?」
「そんなに簡単に『好き』なんて言っちゃだめだよ。……勘違いしちまうだろ?」
「勘違い? どういうこと?」
「まだわからなくていいよ」
「そんなのずるいよ。ねえ、チーちゃん、どういうことなの? 教えて」
「そうだなあ……じゃあ、もう少し大きくなったら教えてあげるよ。だから、今はこれで」
俺はそう言うと、キミの白い頬にそっとキスを落とした。
「ただキミのために。キミの笑顔のために、マジックを続けよう——」
アナタを抱き締めながら、チカゲはそう決心しました。
どれだけ時が経とうとも、その想いだけは決して揺らぐことはないと、チカゲは信じていました。
けれどもその想いは、やがて来る『別れ』によって、少しずつ忘れ去られていくのですが——それはまた、別のお話。
おしまい
——ある日のこと。『西のマジシャン』ことチカゲは、遠くの村に出かけました。マジックショーをしてくれと、別の村の長(おさ)に頼まれたからです。面倒臭がり屋のチカゲは、本当は行きたくなどありませんでしたが、生活していくためにはお金が必要です。チカゲは渋々と小道具の鞄を持って、遠くの村まで歩いていきました。
その甲斐あって、マジックショーは大盛況。お客さんも大喜びです。
けれど、チカゲにとってはどうでもいいこと……。おひねりを貰うと、また元のつまらなそうな顔に戻り、ペットのうさぎと共に、自分の住む村へと帰っていきました。
その途中、チカゲはふと足を止めました。『あるもの』が目に付いたのです。それは、一体……?
「……あれが『人間』の住む村か」
田舎道を歩いていた俺は、平野の向こうにある大きな門を見てぼそりと呟いた。『人間の村』は四方を高い壁に囲まれており、中の様子を窺うことはできない。そのせいか、ただでさえ不気味な場所が、余計に不気味に思える。
このオズのセカイは、元々『ジュウニン』のものであり、『人間』はあの壁の向こう側にしか住んでいない。『ジュウニン』と『人間』——見た目はほとんど同じだが、やはりどことなく雰囲気が違う。それは、奴らが外のセカイから来た者だからだろう。オズのセカイの外側に何があるのかなど、俺は知らない。そんな得体の知れない地域からやってきた『人間』という存在は、ただただ不気味で気持ちが悪い。
「『人間』なんて、とっとと消えりゃいいのに……なあ、うーたん」
俺は肩に乗っていたうさぎのうーたんに向かって言った。確かに、奴らは壁の向こうに隠れていて見えはしないのだが、そこにいるというだけで鬱陶しい。消えてくれないのであれば、いっそ自分が一掃してやろうか……遠出した帰りで疲れていた俺は、憂さ晴らしにそんなことを考える。
すると、うーたんが小首を傾げてみせた。普通の人にはわからないだろうが、長年うーたんと一緒にいる俺には、彼が何を言っているのか理解できた。
「……確かにね。『人間』を一掃するとなると、それはそれで面倒臭そうだ」
俺がそう言うと、うーたんがこくりと頷く。
「よし、くだらねぇこと言ってないで、さっさと帰ろっか。お腹も空いたしね。……あ、そうだ! 今度、ひさしぶりにハルトんちに行こっか。うーたんも好きだよね、ハルトのオムライス」
うーたんがうれしそうにくるりと回る。そんな仕草でさえも可愛くて仕方がない。俺はにっこり笑うと、小道具の鞄を持ち直し、村へと続く田舎道をまた歩き出した。
と、——そのとき。
「っ……」
前から来た人と肩がぶつかり、俺は思わずよろめいた。うーたんが乗っているほうの肩でなかったことは、不幸中の幸いかもしれない。
俺はどうにか踏み止まると、ぶつかった人のほうに振り向いた。
「すみませ……」
謝罪を口にしかけた俺は、その言葉をはっと呑み込む。そこにいたのは、俺の左目と同じ目の色をした、見るからに粗暴そうな男——双子の兄弟の、ケイサだった。
「チッ、テメェかよ……」
ポケットに両手を突っ込んだケイサが、道端にペッと唾を吐き捨てた。あまりの行儀の悪さに、俺は苦虫を噛みつぶしたような顔になる。ダルイ遠征から帰ってきた途端、一番会いたくない相手に会うなんて、今日はなんという厄日だろうか……。最早、視界にケイサを入れていることさえ嫌になり、俺は黙って立ち去ろうとした。
「っ……おい、テメェ! さらっと無視してんじゃねーよ!!」
背後からケイサの鋭い声が飛んでくる。それでも俺は立ち止まらない。大股で歩き続ける。
「チカゲ、テメェ……舐めてると、そのデブうさぎ煮て食うぞ!」
ケイサの言葉に、俺は時が止まったようにぴたりと立ち止まった。
「…………今、なんつった?」
「あぁ? 聞こえなかったのかよ。そのデブうさぎ煮て食うぞっつったんだ」
「っ……」
こめかみの辺りで、何かがブチッと切れる音がする。俺は勢い良くケイサのほうを振り向いた。地面に鞄を放り投げると、ずかずかとケイサのほうに向かって行く。
「デブうさぎだと……? 誰に向かって言ってやがんだ!」
「ハッ、そんなにそのうさぎが大事かよ。うーたんがいないと夜も眠れませんってか?」
「ふざけんな! 俺がうーたんと一緒に寝てやってんだよ! うさぎは寂しいと死んじまうからな。つーか、お前如きが軽々しくうーたんの名前を呼んでんじゃねぇよ、このチンピラ浮浪者!」
「あぁ? ンだと……?」
「大体なんだよ、その格好。汚ねえったらありゃしねえ。一瞬、ゴミが歩いてきたのかと思った。……あー嫌だ嫌だ。近寄んじゃねぇよ、ゴミ!」
「テメェ……それ以上ふざけたこと抜かすなら、ブッ殺すぞ!!」
「お前こそ、さっさと消えろ! なんなら、あそこの『人間』どもと一緒に一掃してやるよ!!」
俺たちは口汚く罵り合った。とても兄弟の会話とは思えない。いや、兄弟だからこそ、こうなってしまうのかもしれない。俺とケイサは双子だが、性格は正反対だ。不潔で、乱暴で、馬鹿で……こんなのが俺の片割れなのだと思うと虫酸が走る。交換できるものならしたいくらいだ。
応酬を続けるうちに、俺たちはとうとうお互いの胸倉を掴み合った。
と、——そのとき、俺の足元に白い影がタッと走り寄ってくる。
「……うーたん?」
うーたんはつぶらな瞳で俺をじっと見上げた。喧嘩はやめて、と言っているようだ。俺はちらりとケイサを見る。ケイサも「チッ」と小さく舌打ちをして、俺から手を離した。
「……いい歳して往来で喧嘩なんて馬鹿らしい。帰ろ、うーたん」
俺は少し腰をかがめると、両手を前に差し出した。うーたんが駆け寄ってきて、俺の腕に収まる。白くてふわふわした姿は天使そのものだ。いさかいなど、ますます馬鹿らしくなってくる。俺はくるりときびすを返すと、投げ出したままだった鞄を拾い上げた。
「……つーか、なんでこんなところにいんだよ」
ケイサに背を向けたまま、チカゲはつっけんどんな口調で尋ねました。
「あぁ? なんでって……ちょっとこの辺で喧嘩があったんだよ」
ケイサが答えます。チカゲにそっくりな、ぶっきらぼうな口調でした。
「ふーん……相変わらず、暴力三昧なのか? 怪我しても知らないよ」
「……テメェには関係ねぇだろ」
「相変わらずだな、そういうところ。……喧嘩とかくだらねぇことしてないで、いい加減、村に戻れ。あと、服はちゃんと毎日着替えろ。臭くてしようがない」
「テメェこそ、なんでもできるくせにダラダラ過ごしてんじゃねぇよ」
「……余計なお世話だ」
チカゲはそれだけ言うと、また田舎道を歩き始めました。うさぎのうーたんがチカゲの肩へとよじ上り、じっと後ろを見つめます。帰っていくケイサを見送っているのでしょう。
「……とりあえず、元気そうだったな。……無駄に」
チカゲはそうつぶやきながら、ひそかに微笑を漏らしたのでした。
おしまい
なんだよ、その顔……なんか不満でもあんのか?
つーか、不満を言いたいのは俺のほうなんだけど……。
キミのせいで、俺はおひねりを回収し損ねたんだ。
ったく……なんのためにマジックなんてダルイことやってると思ってんだよ?
生活のために決まってんだろ? 金を稼げないなら、こんなもの、なんの意味もない。
全部キミのせいだ。責任、取れ。
……あぁ? 押し倒されたくらいでいちいち喚くなよ。
キミには体で償ってもらうから……大人しくしてろ。
何とぼけた顔してんだよ。意味くらいわかるだろ?
ふっ……なんだよ、この細っせえ体……。
こんなので、ホントに俺を満足させられんの? なぁ……。
……あ、意外といいじゃん。
ふーん……まあ、これなら退屈しのぎくらいにはなるか……。
……そうだよ。人生なんて退屈だ。
何もかもつまらない……虚しい時間が続くだけだ……。
……そんなことより、キミのこの体で……俺を楽しませてくれよ……? んっ……。
何って……キスだろ? わかりきったことを聞くな。
あー……もう、うるさい。それとも、もっとシてほしいから、わざと騒いでんのか?
……じゃあ、望み通りシてやるよ。……っん……。
昔々、あるところに孤児院がありました。そこでは、ひとりの少女と6人の兄弟が暮らしていました。少女は、そう——アナタです。
アナタたちは様々な事情から、この孤児院に引き取られました。身寄りのないアナタたちは、屋根のある家で暮らせることをとても喜びました。けれども、そこは決して楽しい場所ではありませんでした。孤児院の主(あるじ)である神父が、アナタたちに酷い仕打ちをしてきたのです。いつかここから抜け出そう。ここではない、どこか新しい『セカイ』で、みんなと幸せに暮らそう——アナタと六人の兄弟たちはそんなふうに話しながら、日々を懸命に生きていました。
これは、そんな頃のお話——。
その日の夕方。オレは疲れた体を引きずって、教会の地下から出た。
オレたち、孤児院の子供は、神父に命じられ、教会の地下で労働をさせられていた。それはあまりにも過酷で、何度逃げだそうと思ったか知れない。けれど、もし神父に逆らえば酷い目に遭わされるだろうし、孤児院を追い出されてしまったら、子供のオレたちには生きていく術がない。だからオレたちは神父に言われるがまま、教会の地下で日々の労働に耐えていた。
「おかえり、ハルちゃん!」
オレが地上に出てくると、オマエが笑顔で駆け寄ってきた。
オマエは、孤児院でオレたちと一緒に暮らしている女の子だった。最初はオマエも教会の地下で働かされていたのだが、女のオマエは非力で、ほとんど役には立たなかった。そこで、オマエはもっぱら孤児院の中で雑用をさせられていた。掃除とか、洗濯とか、そういったことだ。
「今日は遅かったね。どうしたの?」
オマエは小首を傾げながら、オレの顔を覗きこんだ。
「……テンくんの分まで、働かされてたんだ」
「そう……。テンマ君、今日はお休みだったもんね」
「…………」
「ハルちゃん? どうしたの?」
「……ひでぇ格好だな、オマエ」
オレはオマエの姿を見て眉をひそめた。服はあちこちほつれ、髪は絡まっている。頬が煤(すす)で汚れているのは、暖炉の掃除でもさせられていたからかもしれない。
「ちょっとは女らしくしろよ。不細工が余計、不細工になるぜ?」
「もう。ハルちゃんったら、またそんなこと言う……。しようがないでしょ? おしゃれなんてしてる余裕ないんだから」
オマエは少し困ったような顔をした。それを見て、オレは内心「しまった」と思う。おしゃれなどしている余裕はない——当たり前だ。オレたちは孤児で、毎日生きるのがやっとなのだから。そんなことはわかりきっていたはずなのに、オレはつい、思ったことをそのまま口にしてしまった。それは、オレの悪い癖だ。
オレはどう取り繕うべきか悩んだが、オマエはもう、けろりとしていた。
「そんなことより、行こ! みんなもう戻ってきてるよ」
オマエは笑顔で言うと、オレの手を取って歩き始めた。オマエの手は、今までオレが触れたどんなものよりも、あたたかく、柔らかかった。不思議だなと思う。オマエといると、自分が少しだけマシな人間になったような気がする。オレとオマエは他愛もない話をしながら、教会と同じ敷地にある孤児院を目指した。
その夜、オレとオマエ、それに孤児院の子供たちはいつものように揃って夕食を摂った。
といっても、そんなに食べるものがあるわけではない。皿の上には、ふかした芋とパンが一つ、それにトマトが一切れ添えられているだけだった。もっとも、芋だけなんていう日もあることを考えれば、これでもかなりいいほうだ。腹を空かせていたオレたちは、すぐにでも目の前の食物にかじり付きたかったが、年長のアイルがそれを許さない。オレたちは手を合わせたまま、アイルが口を開くのを静かに待った。
「……いただきます」
「いただきまーす!」
アイルが言うや否や、オレたちも一斉に声を上げた。ひとたび食器を手に取ると、あとはもうひたすら食べ続けるだけで、特に会話を交わすようなことはない。昼間、労働をさせられているせいで、みんな疲れきっているのだ。アイルは呆れたような顔をしていたが、オレたちの気持ちを汲んでか、何も言わずにいてくれる。
毎日毎日、飽くことなく繰り返される光景——。だが、今日は少し違った。
「なぁ、ハルちゃん」
横から声を掛けてきたのは、テンマという少年だった。オレと同い年だというわりには、少し背が低い。
「あぁ? なんだよ」
オレは不機嫌な声で返事をした。実を言うと、オレはテンマに対して少し腹を立てていた。テンマはたまに「風邪を引いた」などと言って、仕事を休むことがある。みんなは「仕方がない」と大目に見ていたが、オレはテンマがひとりだけ楽をしているようで面白くなかった。テンマにも、やむにやまれぬ事情があったのだが……オレがそれを知るのは、ずいぶん後になってからのことだ。
「それ、いらねーの?」
テンマがフォークの先で指したのは、オレの皿の上にあったトマトだった。オレがトマトだけをよけて食べていたので、要らないのだと思ったのだろう。別にそういうつもりはない、むしろ最後の楽しみに取ってあるだけだ——オレはそう答えようとしたのだが、そのときには既にテンマのフォークが動いていた。
「へへ、もーらい♪」
グサッと音を立ててトマトにフォークが突き刺さり、テンマの口へと放り込まれる。オレはしばし呆然としていたけれど、やがてふつふつとした怒りが沸いてきた。今日一日、歯を食いしばって働いてきたのに、唯一と言っていい楽しみを奪われた……そう思うと、もう我慢ならない。
「テメェ、勝手に食ってんじゃねえよ!!」
オレはドンッとテーブルを叩き、椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
「誰が要らねえつった!? 最後に食おうと思って、取ってあっただけだ!」
「あ、そうだったのか? わりぃ」
テンマは口の中のものを咀嚼(そしゃく)しながら呑気そうに答えた。その様子を見た瞬間、オレの中で何かがぷつりと切れる。
「このっ、舐めてんじゃねえ!!」
オレはテンマの胸倉を両手で掴み上げた。オマエが慌てて立ち上がり、オレたちの間に割って入る。
「ハ、ハルちゃん、落ち着いて……」
「オマエはすっこんでろ! これはオレとテンくんの問題だ」
オマエを突っぱねると、オレはまたテンマに向き直った。テンマはムッと唇を尖らせ——。
「悪かったよ。けど、そんな怒らなくてもいいだろ? トマトくらい、また今度返してやるよ」
などと言った。
その的を射ていない言葉に、オレはますます怒りを募らせる。
「そういう問題じゃねえ! 怠け者のくせに、人の飯までとりやがって……」
「怠け者って……どういうことだよ?」
「あぁ? ふざけてんのか? テメェ、今日は仕事を休んでやがっただろ。みんな必死で働いてる……今日だって、テメェが休んだ分は、オレが肩代わりしてやったんだ。なのに、テメェはなんなんだよ!? 何もしないで、タダ飯食って、その上、人の飯までとりやがって……風邪だなんだって言ってるけど、本当はただのサボリなんじゃねえのか!?」
「っ……」
「待って、ハルちゃん! 違うの。テンマ君は——」
「あ〜、おいしいなあ、このパン! ちょっと固いけど!」
突然、シアンがわざとらしく大声を上げた。それに気付かされたように、オマエははっと口を噤む。……これも後から知ったのだが、オマエとアイル、そしてテンマの弟であるシアンだけは、テンマの『秘密』を知っていたのだった。けれど、テンマに「誰にも言うな」と口止めされていたらしい。
「もうやめなよ、ハル。飯が不味くなるだろ? ただでさえ不味いのに……」
兄のチカゲが、フォークの先で皿を突きながら呆れた声で言った。
「うるせえ! チーにぃちゃんには関係ねえだろ!」
「はいはい、じゃあもう勝手にしな」
「……おい、ハル。殴られてえのか」
もうひとりの兄のケイサが、鋭い目付きでオレを睨んでくる。
「なんでオレが殴られなきゃなんねえんだよ! 悪いのはテンくんだろ!?」
オレはテンマに向き直ると、胸倉を掴む手にぐっと力を込めた。
「今日という今日は許さねえ……土下座して謝れ、このチビ!」
「なっ……チビは関係ねえだろ!? つーか、チビって言うな!」
「何度でも言ってやるよ、このチビ! 豆! どうせデカくなれねえんだから、食うだけ無駄だ!」
オレはテンマを突き放すと、テンマの皿を引っ掴んだ。そして、皿の上のものを、床に勢い良くぶちまける。
「っ……テメェ、何しやがんだよ!!」
テンマが顔を紅潮させ、オレの胸倉を掴んでくる。オレは負けじとテンマを掴み返し——。
「いらねえだろ、テメェには! ろくに働いてもねえくせに、一人前に食ってんじゃねえよ!」
「さっきから聞いてりゃ好き放題言いやがって……俺だって、好きで休んでんじゃねえ!」
「嘘吐け! サボりたいだけだろ、テメェは! 働かねえなら食うな、役に立たねえなら死んじまえ!」
オレは怒りに任せて思い付く限りのことをぶちまけた。死んじまえ——そう言った瞬間、テンマの顔が強張る。けれど、ここまで来たらもう後に引けない。オレの言葉を契機に、テンマとオレはついに取っ組み合いの喧嘩になった。オマエは必死にオレたちを止めつつ、助けを求めるように辺りをおろおろと見回す。
——と、そのとき。
「いい加減にしろ。食事中に騒ぐな」
アイルが静かに、だがぴしゃりと言い放つ。背筋が凍り付くような、冷たい声だった。アイルのその一言で、オレたちは水を打ったように静まり返る。
「……はい。じゃあ、ハルトはこっちに来ようね」
いつの間にかそばにいたチカゲが、オレの片腕を掴んだ。ケイサも加わり、オレをテンマから引き剥がす。テンマのほうにはシアンが寄って行った。
それからしばらく、テンマはオレと口を利かなくなった。孤児院の中ですれ違っても、目を合わすことさえしない。オレはテンマに対してただただ怒りを覚えていたが、時間が経つにつれ、徐々に居心地の悪さを感じるようになった。
「——ハルって、そういうところあるよな」
ある日の午後、チカゲが廊下を歩きながら言った。
「なんだよ、そういうところって……」
オレは憮然とした顔で、チカゲに聞き返す。
「無意識に人を傷付けちまうっていうか……普通は言わないようなこと、言っちまうだろ? この前、テンマと喧嘩したときみたいに」
「あれは、テンくんが悪いんだろ? アイツがオレの飯をとるから……」
「それはそうだけどさ。でも、さすがに『死んじまえ』はないんじゃない?」
「なんでだよ? チーにぃちゃんもそう思ってんだろ? テンくんのこと、ずるい奴だって」
「まあ、ずるいっていうか、休めていいなとは思うけど……。でも、テンマだって休みたくて休んでるわけじゃないんだ。きっと、みんなと一緒に働けないことを気に病んでる。そこを口に出して責めるのは、ちょっと可哀想だよ」
「…………」
「ともかく、気を付けたほうがいいよ。ハルって、人が傷付くようなことをポロッと言っちまう癖があるから。……じゃ、俺はちょっと手ぇ洗ってくる」
チカゲはそう言うと、オレを残してすたすたと廊下を歩いていった。オレはその場に立ち尽くし、チカゲに言われたことを反芻する。心ないことを言ってしまう——それはオレも自覚があった。悪い癖だとも思う。けれど、自分ではなかなか直し方がわからなかった。
「あ、いた……ハルちゃん!」
オレの後ろから、オマエがぱたぱたと走ってきた。今し方、チカゲに痛いところを突かれたばかりだったオレは、不機嫌な顔でオマエのほうに振り向く。
「……なんだよ」
「あのね、さっきそこでテンマ君に会ったの。お願いしたら、少しだけ待っててくれるって。だから……テンマ君に謝りにいこう?」
「っ……」
オレは思わずオマエから目を背けた。テンマに謝らなければならないことはわかっている。けれど、なかなか素直になれない。あれから時間が経ちすぎていたというのもあるし、オレの中にもまだ意地のようなものが残っていた。
「なんでオレが謝らなきゃなんねえんだよ。元はといえば、テンくんのせいだろ?」
「だけど、このままじゃふたりとも喧嘩したままだよ。それに、ハルちゃんもテンマ君にひどいこと言ったじゃない。人が気にするようなことは言っちゃダメだよ」
チカゲと同じようなことを言われ、オレはぎゅっと眉根を寄せた。オレが苛立ち始めていることにも気付かず、オマエは言葉を続ける。
「ちゃんと謝らないと、元に戻れなくなっちゃうよ。私も一緒に行くから、テンマ君に謝ろう? ね?」
オマエはじっとオレの目を見つめた。そのガラス玉のような瞳には、なぜだか逆らえない力があった。オレはどうにか目を逸らすと、唇をきつく噛み締める。オマエに気を遣わせたことが酷く恥ずかしかったし、情けなかった。
「……うっせーよ、バカ!」
オレは唯一の味方さえはね付けると、逃げるようにその場を走り去った。
「……はぁ……」
教会の裏山まで来たオレは、大きなモミの木の下で溜息をついた。テンマ君に謝ろうよ——オマエがそう言う声が頭の中で響く。オレは髪をがしがしと掻きながら、また溜息をついた。
どうして自分はこうなのだろう。こんなことを、あと何度繰り返せばいいのだろう——自分に問いかけてみるけれど、答えは出ない。もしかしたら、オレには心がないのかもしれない。チーにぃちゃんも言っていたじゃないか。ハルって、人が傷付くようなことをポロッと言っちまう癖があるから、と。人の痛みが理解できない——それって、心がないからなんじゃないのか? 人間の、心が。
そんなことを考えていたとき、坂道を駆け上がってくる足音が背後から聞こえた。
「……ハルちゃん!」
息を切らせながら声を上げたのはオマエだった。不意を突かれたオレはまばたきをするのがせいぜいで、オマエがモミの木のところまで来るのを止めることはできなかった。
「なんだよ……何か用か」
「ハルちゃん、どうしてるかなと思って……追いかけてきたの」
「っ……余計なお世話だ」
「わかってるよ。だけど、ハルちゃんのこと心配なんだもの……」
オマエはそう言うと、深呼吸をした。荒い呼吸を整えてから、ぽつぽつと話し始める。
「私……ハルちゃんに、ひとりぼっちになってほしくない」
「え……?」
「こんなことを続けていたら、いつかみんなの心がハルちゃんから離れちゃう。ハルちゃんはそれでもいいって言うかもしれないけど、私は嫌……だって、私はハルちゃんのことが大切だもの」
「…………」
「大切な人が嫌われるのは嫌だよ……ハルちゃんがひとりぼっちになってるとこ、見たくない……」
オマエは泣きそうな声で言った。どうして他人のために、ここまで一生懸命になれるのだろう……。オレは少し動揺して、オマエが向けてきたガラス玉の瞳から目を逸らす。
「……どうしたらいいか、わかんねぇんだよ」
「ハルちゃん……」
「テンくんに謝っても許してもらえるかわかんねぇし……それに、もし許してもらえたとしても、また傷付けちまうかもしれない。……できねえんだよ。誰かを思いやったり、理解したり……みんなが当たり前にできることが、オレにはできない。もしかしたら、オレには心がないのかもな」
オレは自虐に唇を歪めた。こんな性格はもう直らないに違いない。これからもオレは、言葉の刃で誰かを傷付け、疎まれながら生きていく。気付けば周りに誰もいなくなって、孤独のうちに死んでいくのだろう……子供心に、オレはそう思った。
「……どうして、そんなことを言うの……?」
ふとオマエがつぶやく。その声は、まるで自分が傷付けられたかのような、悲しみと痛みに満ちた声だった。
オレは胸を衝かれたような心地がして、思わずオマエの、ガラス玉の瞳を見た。
「ハルちゃんは優しいよ。私は知ってる。あなたには、ちゃんと心がある」
「オマエ……」
「そうじゃなきゃ、そんなふうに悩んだりしない。そんな辛そうな顔をしたりしない。ハルちゃんはちょっと不器用なだけだよ。自分には心がないなんて……そんな悲しいこと、言わないで……」
言い終えないうちに、オマエは泣き出してしまった。まるでガラス玉が溶けたかのように、両目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「っ……クソ、泣くなよ……」
オレはおろおろした挙げ句、他にどうしようもなくてオマエのことを抱き締めた。泣くなとは言ったけれど、オレなんかのために泣いてくれたことが、実は少しうれしかった。
その後、オレはひとりでテンマのところに謝りに行った。オマエも付いて行くと言ったけれど、これはオレが自分で向き合わなければいけないことだ。その結果、テンマはオレを許してくれた上、トマトをとったことを改めて謝ってくれた。
「良かったね」
なだらかな坂道を下りながら、オマエはオレに微笑みかけた。今日はひさしぶりに休みをもらうことができたので、オレたちはふたりでモミの木のところまで散歩に出かけていた。そして、今はもう帰路に就いている。
オレは少し速い鼓動を感じながら、いつオマエに「あのこと」を言い出そうかと思案していた。懐に触れてみたりするけれど、なかなかそれを取り出すところまではいかない。照れのようなものが、いつまでもオレの手を躊躇わせていた。
だんだんと孤児院の建物が見えてくる。あそこに辿り着く前に、ふたりきりでいる間に渡そう——オレは意を決すると、柔らかな日溜まりの中で立ち止まった。
「ハルちゃん? どうしたの?」
「……これ」
オレはぶっきらぼうに言いながら、オマエにあるものを差し出した。
「……? これ、ブレスレット?」
それは、銀でできたブレスレットだった。
特に細工などはない、シンプルなものだ。本当はもう少し凝ったものにしたかったけれど、子供の力で、しかも仕事の合間に作るのは、これが精一杯だった。
「オマエにやる。色々、世話になったし……」
「えっ? いいの?」
「これで、ちょっとは女らしくなるだろ」
オレがぶっきらぼうに言うと、オマエはぱっと顔を輝かせた。その細い手首にブレスレットを通し、夕日にかざしては何度も何度も「きれい」と口にする。子供の手で作った稚拙(ちせつ)なものなのに、まるで世界一、上等なブレスレットを貰ったかのような喜びようだ。
そんなオマエを見て、オレは思わず苦笑を漏らした。そして、息を吸うようにゆっくりと口を開く。
「……約束する。もう、人にひどい言葉を言ったりしない」
「ハルちゃん……」
「言葉だけじゃない。人を傷付けるようなことは、もう二度としない——オマエと、そのブレスレットに誓う」
オレがそう言うと、オマエは日溜まりよりも柔らかく、優しい微笑を浮かべた。
「誰のことも傷付けたりしない——」
アナタとの約束を胸に生きていこうと、ハルトは固く決心しました。
どれだけ時が経とうとも、アナタと交わした約束だけは決して忘れることはないと、ハルトは信じていました。
けれどもその約束は、やがて来る『別れ』によって、少しずつ忘れ去られていくのですが——それはまた、別のお話。
おしまい
——ある日のこと、木こりのハルトは山の作業場で薪(まき)を割っていました。
ぽかぽかとした陽気に包まれ、外で仕事をするには絶好の日よりです。
無心で斧を振るうちに、いつしか太陽は一番高いところにまで昇っていました。ハルトは手を止めると額の汗を拭い、そろそろ昼食を作ろうかと山小屋のほうを振り向きました。
すると、山の麓(ふもと)から続く道を、誰かが登ってくるのが見えました。こんな辺鄙(へんぴ)な場所を訪れる人など滅多にいません。一体、誰が来たのでしょうか——?
「よっ、ハルト! 元気?」
片手を上げながら現れたのは、オレの兄のチカゲだった。
オレには双子の兄がいて、そのひとりがコイツだ。兄たちとオレは父親が違うが、だからといって疎遠だということはなく、チカゲなどは時折こうしてオレの元を訪れていた。オレにとってはそれがやや鬱陶しく、今日もチカゲを見るなりつい渋い顔になってしまう。今から飯にしようというときにやってくる、この間(ま)の悪さが憎らしい。
「何しに来たんだよ」
オレはチカゲに向かって、つっけんどんに言った。
「んー、特に用事はないかな。あえて言うなら、ハルトの顔を見に来た」
「帰れ」
「え〜、いきなりそれはないだろ? せっかく半日もかけて険しい山道を歩いてきたのに」
「別に頼んでねぇよ。……ほら、今から昼飯作るんだから邪魔すんな」
「へぇ。何作るの?」
「……オムライス」
「やった! ハルトの作るオムライス美味いんだよな〜。腹空かせてきた甲斐があった」
「誰が食ってけっつった!? テメェに食わせる卵もライスもねぇんだよ。タダ飯食いに来ただけなら、とっとと帰れ!」
「つれないなぁ、ハルトは……。昔は『チーにぃちゃん』とか言って、オレの後ろをアヒルの子みたいに付いて回ってたのに……」
「っ……、いつの話だよ!!」
「それは……あれ、いつだっけ……?」
チカゲは本気でわからないというように首を傾げた。その様子を見て、オレもふと、不思議なことに気が付く。なぜだか昔のことがあまりよく思い出せない。まるで靄(もや)が掛かったように記憶がぼんやりしている。
チカゲはしばらく考え込んでいたが、やがて「まあいいや」と話を戻した。
「そういえば、来るとき大蜘蛛に遭遇してさ。どうにか逃げたけど……ヒヤッとしたよ」
この山には人食い大蜘蛛が棲んでいる。人食いというくらいだから馬鹿でかく、森の木を荒らすこともあるオレたち木こりの天敵だ。
「毎度毎度、大蜘蛛に襲われる危険を冒してまで、なんでここに来るんだよ? 神経疑うぜ……」
オレは吐き捨てるように言った。すると、何を思ったのか、チカゲは不意に真剣な顔付きになった。
「そういうハルトこそ、どうして山にばかり行くんだよ?」
「あぁ……? 木こりの仕事があるからに決まってんだろ」
「仕事が終わっても、いつもなかなか山を下りてこないじゃん。そんなに村にいるのが嫌? みんなと一緒にいたくねぇの?」
チカゲはそう言いながら、左右で色の違う瞳でじっとオレを見た。
——別に、村にいるのが嫌というわけではない。ただ、人の輪の中にいると、どうしても居心地の悪さを感じてしまう。
オレが何かを口にするたび、なぜそんなひどいことを言うのかと批難され、しまいには距離を置かれる。ひどいも何も、本当のことを言っているだけなのに……。それに、ひどいなどと言われても今一ピンと来ない。それは多分、オレには『あるもの』がないからだ。
人であれば当然持っているはずのもの——他人を思いやる『心』が。
「村の奴らと一緒にいても、上手くいかねーし……」
オレはそう言って、さりげなくチカゲから視線を逸らした。チカゲは何も言わず、ただくすりと笑う。多分、チカゲにはオレの考えていることなどお見通しなのだろう。チカゲといると自分の子供っぽさを思い知らされるようで、オレは余計にイライラしてしまう。
「ひとりぼっちじゃ寂しいだろ? 今日は一緒に山を下りていこうよ」
「……オマエはオレの飯が食いたいだけだろ。その手にはのらねぇよ」
「えぇ〜そんなことないよ。お兄ちゃんはハルトのこと、とーっても心配してるんだよ?」
「…………っ」
「まあ、気が向いたらいつでも村に戻っておいで。待ってるから」
「っるせえ、待たなくていい。……余計なお世話なんだよ」
「ハルト……」
「もういいから、さっさと帰れ! 鬱陶しいんだよ!」
オレは持っていた斧を切り株に突き立てた。チカゲは苦笑を浮かべると、そのままきびすを返した。
「……またやっちまった……」
遠ざかっていくチカゲの背中を見つめながら、ハルトは後悔の念を滲ませました。
素直になれない。優しくすることができない。いつから自分はこんなふうになってしまったのだろう? 心のないブリキになってしまったのだろう……? ハルトは考えてみましたが、少しも思い出すことはできませんでした。
そうしている間にも、チカゲの姿はどんどん遠ざかっていきます。このまま別れてしまったら、次にチカゲに会うまで、もやもやした気持ちのままに違いありません。
「……おい、チカゲ!」
ハルトは思いきってチカゲを呼び止めました。チカゲが振り向き、不思議そうな顔をします。
「……き、気を付けて帰れよ……」
ハルトが仏頂面で言うと、チカゲは少し目を見開きました。それからにっこり笑うと、ひらりと手を振り、のんびりした足取りで山を下りていきました——。
おしまい
うわ……濡れたせいで不細工な顔が余計、不細工になったな……。
……あぁ? ひどい? 本当のことだろ。なんなら、鏡、見せてやろうか?
傷付く? なにが? どっか怪我でもすんのかよ?
違うって……じゃ、なにが傷付くっていうんだよ?
……『こころ』?
……オマエの言ってること、さっきから全然わかんねえ。
自分に無いもののことを言われても、わかるわけねえだろ?
ああ、そうだよ。オレには心なんて無い。
だから、オマエの言う『傷付く』の意味もわからない。
あ? それで抵抗してるつもりかよ? ふっ……バーカ。オマエの力で、オレに敵うわけねえんだから……黙って大人しくしとけ。
だから……声出すなっつってんだろ? 言ってもわかんねえなら、いっそ……その口、本当に縫っちまうぞ? ……んっ……。
クク……離すわけねえだろ? オマエの体を調べ尽くすまで……離してなんかやらねえよ……。